T. Spidlik枢機卿の日々のみことばの黙想の一部から(試訳) 年間第26火曜日:敵に対する怒り(ルカ9・51-56)
年間第26火曜日:敵に対する怒り(ルカ9・51-56)
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主よ、お望みなら、天から火を降らせ、彼らを焼き払うように願いましょうか
使徒たちの側からの、このように暴力的な反応を、誰が期待しただろうか?彼らが興奮していることが分かる。人は怒りに駆られると常に復讐を考え、自分の犯罪的提案に神自身を巻き込もうとする。このように、古代の呪いがある:大地がお前を飲み込むように!雷がお前を打つように!神がお前を罰するように!どういう意味だろうか。
魔術的な力をもっての呪いは異教の習慣であった。それに反して、イスラエルの民は、復讐をするよう神に求めた。詩編も、私たちに襲いかかる敵に対する神の怒りを嘆願している。しかし、全く善である方は、悪意のある行為に力を貸すことは出来ない。けれど、神は正しい方でもあり、ご自分の正義を主張するだろう。しかし神の復讐は、異教のネメシスではない。キリスト者は、神がいつくしみであることを知っている。
イエスは振り向いて、二人をたしなめられた。そして、一行はほかの村へ向かっていった
侮辱された人が怒るのは自然であるが、自分の怒りを抑えようとするのも人間的である。ある人にとってそれはより簡単であり、他の人にとってはより難しい。それは性格の問題である。しかし、聖人たちの模範は、それが常に可能であることを示している。ロヨラの聖イグナチオは腹を立てやすい性格だったが、冷静な人だと思われるほどに、自分を抑えることが出来た。人々は冗談で、もし、彼がひじょうに大きな霊的熱意をもって書いた会憲を、教皇が火の中に投げ入れるよう求めたらどうするか、と尋ねた。聖イグナチオは、それに従うだろう、そして神の恵みの力で、冷静になるために15分あれば十分だろう、と答えた。
「一行はほかの村へ向かっていった」という言葉を大切にしよう。冷静さを失わせるものは放っておき(忘れて)、別のことに集中しよう。世界はとても広いのである。
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