Tomas Spidlik枢機卿さまの「みことばの黙想」年間27水曜日:私たちの父よ(ルカ11・1-4)「一部試訳」
Tomas Spidlik枢機卿さまの「みことばの黙想」から、今日の福音についての黙想の一部を試訳したものです。
年間27水曜日:私たちの父よ(ルカ11・1-4)
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祈る時には、こう言いなさい、「父よ」
聖ルカは、私たちの「主の祈り」を短い形で示し、聖マタイは私たちが知っている通常の形で示している(マタ6・9-13参照)。しかし、キリスト教の啓示の本質的真理は、すでにたった一つの言葉―「父」―の中に含まれている。私たちは単に神を信じているのではなく、父である神を信じているのである。
私たちは、世界は美しく、秩序付けられていて、唯一の原因があり、唯一の原則によって統治されていることを、理性をもって見出す。哲学者たちはそれを神と呼ぶが、それ以上は分からない。原則、秩序、法は守られるべきである。しかし私たちはそれらと話すことは出来ない。生きている人間とするように、それらと対話をすることは出来ない。
キリスト教の啓示は、私たちに、世界の至高の立法者が、私たちの父と呼ばれるほどの特性をもった一つの位格(ペルソナ)であることを教えている。このようにして初めて、宗教の土台となる行為が可能になる:問いかけ、赦し、誓い、希望、愛…。もし神が単に一つの法であるなら、何も意味をもたないだろう。宗教は科学となり、いのち、愛であることを止めてしまうだろう。
み国が来ますように
父と語るように神と語ることは、霊的著作家たちによると、ある種の「楽園への帰還」である。最初の人間は、罪のない状態であったとき、彼のために楽園、つまり神の子らとしての尊厳にふさわしい環境を準備してくださった創造主に、つねに近づくことが出来た。宇宙の原初の美しさの、先祖代々の記憶は、芸術家や偉大な思想家たちのインスピレーションを今も形成している。すべての人が、この世界を、私たちが望む王国に変えようとする。しかし、今までに成されたすべての試みは、悲しいことに失敗した。
楽園は人間の王国ではなく、神の王国(み国)である。そのため、私たちは、私たちの父に、このみ国が私たちに返還され、私たちがそこで、私たちが望むように生きることが出来るようにと祈る。王であるキリストの祭日の叙唱は、私たちが何を望んでいるのかを説明している:永遠のみ国、真理と命のみ国、聖性と恵みのみ国、正義のみ国、愛と平和のみ国。
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