Sr.ルカの独り言:2021年12月17日:待降節八日前

待降節八日前。典礼のトーンが変わり、私たちに向かって「迫り来る」主の、緊迫感が伝わってくる。それは確かに「喜び」の知らせである。同時に、しかし、私たちの意識、自覚に「選択」を迫る知らせでもある。


ユダヤ教・キリスト教伝統は率直に言う。実に、創造主である神は、私たちを「自由な存在」としてお造りになりながら、ひじょうに大きなリスクを冒した、と。「土の塵」に過ぎない人間(創世記2・7参照)が、造り主を受け入れることも拒むことも出来る存在となった。そしてそれは不幸にも、ネガティブな方法で、つまり、創造主を拒む行為において、人類の歴史が証ししている。最初の人間、アダムとエバから始まって。


「自由に」、創造主を受け入れることも、拒むことも出来る被造物である人間。


その人間が、「自由に」、全面的に、創造主を受け入れることが出来るようになる。創造主の「夢」を、自分の「夢」とすることが出来るようになる。創造主の夢、つまり、お造りになったすべてのものを、ご自分の永遠の生、幸のうちに一つに集めることを、自分の夢とし、その夢の実現のために創造主に自由に協力することが出来るようになる。


それが、真の人間、「時が満ち」、御父から「女から生まれる」者として遣わされた御子、イエス・キリストである(ガラテヤ4・4参照)。


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「メシア・救い主」は、ゆえに、「子」として来られる。


私たちに向かって「迫り来る」子を、最も身近に感じるのは「母」である。降誕前八日間から、母としてのマリアの姿が強調されるのは自然なことである。


たとえば、今日(12月17日)の教会の祈り、読書課の賛歌。[試訳]


おとめマリアから生まれた

あがない主、キリストの神秘を礼拝しよう。


マリアの最も清い胎の中で

キリストは人となった、神の摂理によって。


恵みに満ち、

傷のない、永遠の処女(おとめ)、マリアは、

いと高き方の神殿。


昇る太陽のように、

閨(ねや)から出た花婿のように、

神はわたしたちを救いに来られる。


世の闇の中で輝く光よ、

わたしたちの闇に打ち勝ってください。


栄光の王、

人々のための仲介者、イエスよ、

赦しと平和を与えてください。


主キリスト、

御父、聖霊はたたえられますように。

今も、いつも代々に。アーメン。


「閨(ねや:talamo、婚礼の床)から出た花婿のように」という詩編からの表現(詩編19・6参照)は、キリスト教伝統の中で、キリスト論的に解釈されてきた。それは、太陽であるキリストの「二つの誕生」を示唆している、と。


つまり、「母の、清い、けがれのない胎」からの「第一の誕生」(降誕)と、「墓の、新しい、けがれのない胎」からの「第二の誕生」(復活)。


教会の教父たちの教えの中で、受肉と過越の神秘は、つねに深く結びついている。


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「閨から出た花婿のように」。マリアの胎は、神が人と、決定的に、解くことの出来ない絆で結ばれた場、「閨」である。マリアの胎の中で、神性は人性と結ばれ、それはもはや引き離すことはできない。イエス・キリストの唯一の「ペルソナ」の中で結ばれたからである。イエス・キリストは、もはや、神だけ、人だけになることはできない。「真の神」であり、同時に「真の人」である。


神が、マリアの胎の中で、真に私たちの人性、肉を、ご自分のものとしてまとってくださったからこそ、私たちの人性、肉は贖われたのだ、と教父たちは言う。


例えば、今日、12月17日の読書課第二朗読で読まれる、聖レオ一世の手紙の中で言われているように。


新しい人であるキリストが「罪深い肉と同じ姿」(ロマ8・3)となって、わたしたちの古い状態を受けとられなかったらとしたら、また御父と本質を同じくする方が、母とも本質を同じくするものとなってくださらなかったとしたら、また、人間の中でただ一人罪を知らない方がわたしたち人間の本性をご自分に結合しようとされなかったなら、人類は捕らわれの身として、ことごとく悪魔の軛(くびき)のもとにとどまったことでしょう。もしキリストと悪魔の決戦がわたしたちの人間性以外の場で行われたとしたら、わたしたち人間はキリストの勝利の恩恵に浴することはできなかったことでしょう。


神の御子が人間性に参加[参与]したこの驚嘆すべき出来事から、再生の神秘の光がわたしたちに示されました。[わたしたちのために、再生の秘跡が輝きを放ちました]それは、キリストの托身と誕生をもたらした聖霊そのものにより、わたしたちも霊的に再び生まれるためです。

だからこそ福音記者ヨハネは信じる者について、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(ヨハ1・13)と言っているのです。


『毎日の読書』第1巻:待降節・降誕節、中央協議会、2008年(第4版)、57-58頁。


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それは人間の知性を越える神の摂理であり、私たち人間は、いただいた自由意志をもって、それを受け入れることも、拒むことも出来る。「被造物」である私たち人間が、「創造主」を拒むことも出来るのだ。神は、何というリスクを冒して、私たちを造ってくださったのだろう。


主の降誕に捧げられた、古代教会の説教、賛歌は、この神のパラドックス(逆説)を、人間の知性では完全に捉えることの出来ない「驚くべきこと」としてありのままに表現している。


無限である方が、

空間の中に納まることを望まれた;

ご自分の永遠性に留まりながら、

時の中に存在し始めることを望まれた。

宇宙の主が、

ご自分の威厳の栄光を覆い(ベール)の下に隠し、

僕(しもべ)の本性をまとわれた。(聖レオ一世、主の降誕についての説教)

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