Sr.ルカの独り言:2021年12月18日:降誕七日前
今日の福音(マタイ1・18-24)は、ヨセフへの、主の使いのお告げの場面を語っています。Tomas Spidlik枢機卿は、この福音箇所について語りながら、「神の正義と人間の正義」について考えています。
神は正しい方ですが、神の正しさ(正義)は、人間の正しさ(正義)とは違います。Spidlik師と共に、「神の正しさ」と、新しい契約の初めに証しされた「ヨセフの正しさ」について見てみましょう。
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契約を結ぶには、二つの側の当事者が必要です。
イスラエルの民は、神ご自身と、契約、約束を結びました。シナイ契約を思い起こしましょう(出エジプト記19-24章参照)。どんな内容だったでしょうか。Spidlik師は要約しています。
[イスラエルの民]は、神の戒めを守ることを約束し、神ご自身は、[彼らに対する]ご自分の保護と、将来における「メシア(救い主)」の派遣を約束しました。
「正しいユダヤ人」とは、ですから、「神との契約」を守る人たちでした。そのような人は多かったでしょうか。そうではなかったようです。けれど、契約に留まった数少ない人々、預言者たちが「忠実な残りの者たち」と表現している人々がいました。Spidlik師は考察します。
確かにヨセフは、その数少ない中の一人でした。だからこそ、メシアの到来という大きな約束の実現の一端を担うことを許されたのです。神への忠実さは、必ず大きな報いを受けます。
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人間同士の契約の場合、当事者の一方が契約を守らない場合、もう一方はすべての義務から自動的に解放されます。しかし、これは神と人との契約にも当てはまるだろうか、とSpidlik師は問いかけます。これはまさに、預言者ホセアの主要テーマです。
先に見たように、神とイスラエルの民との契約の条件は、民の側からの神の掟への忠実さと、神の側からの民の保護でした。
イスラエルの民は、神の掟を守らず、ゆえに神は、ご自分の民の不忠実さを訴えます。預言者ホセアは言います。
「イスラエルの子らよ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者を告訴される。この地にはまことも愛もなく、神を知ることもない」(ホセア4・1)。
「もし、公平な裁判官にこの事案が出されたら、その裁判官は神の言い分を認めるでしょう」とSpidlik師は考察しています。
神はもはや民を保護しないと、ホセア預言者を通して言われます。
「知識がないためにわたしの民は滅びる。お前が知識を拒んだから、私もお前がわたしの祭司であることを拒む。お前はお前の神の教えを忘れたから、わたしもお前の子らを忘れる」(ホセア4・6)。
しかし、とSpidlik師は言います。
これは預言者の最後の言葉ではありませんでした。神は正しい方ですが、人間のようにではありません。神は、ご自分の特別な方法において、正しい方であるのです。神は、たとえ義務ではなくても、約束を守ります。
契約の担い手の一方である民が約束を破っても、神は約束を守ります。その理由は何でしょうか。神ご自身が答えています。
「わたしは神であって、人ではないから。わたしはお前とともにいる聖なる者で、破壊を好まない[怒りのうちにお前のところに来ることはない]」(ホセア11・9)。
「そのとき、いつくしみは、ある種の正義、自分の約束への忠実さ、愛への忠実さとして現れるのです」とSpidlik師は考察します。神において、正義といつくしみは相反するものではなく唯一の全体を形づくっているのです。
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ヨセフの「正しさ」は、この神の「正しさ」を反映している、とSpidlik師は指摘します。今日、聞いた、福音の箇所を考えてみましょう。
一見すると不自然に見えます。マリアは不貞をはたらいているように見えます。しかしヨセフは、権利を行使してマリアを罰することをせず、いつくしみ深い行動をとります。
ヨセフの正義は、人間の正義を超えます。それは神の正義に似ています。そのため、ヨセフはひじょうに大きな報酬を受け取りました。あがないの神秘、受肉の神秘、神のいつくしみの至高の業の神秘に最初に導き入れられたのはヨセフです。
ヨセフの正しさは、人間の正しさを超え、神の正しさに似ている。だからこそ、矛盾しているように見える出来事の中で、神の真理を知り、行うことが出来たのです。
イエス・キリストのうちに実現した「新しい契約」は、手で書かれた契約書にではなく、人間の心の中に刻まれます。Spidlik師は指摘します。
新しい契約は人間の心の中に隠されています。忠実な人々が誤った判断をされ、理解されないように見えることがあります。しかし、神は、隠された真理を、それにふさわしい人に明らかにするでしょう。
神は使いを通して、ヨセフに真実を告げます。マリアの胎内の子は、聖霊によって宿ったのだ、と。そしてヨセフは、「主の使いが命じたとおり」マリアを妻として迎え入れます(マタイ1・20、24参照)。
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教皇フランシスコは、聖ヨセフについてのカテキズムの中で、ヨセフの沈黙について考察しています(一般謁見、2021年12月15日)。ヨセフの沈黙は、決して「だんまり主義」ではなく、「耳を傾けること」に満ちた沈黙、「活動的な」沈黙、彼の偉大な内面性を浮かび上がらせる沈黙である、と。
ヨセフは、沈黙することで、一時の感情にまかせることなく、自分の心の中に、神が、聖霊が働くことが出来る場所を空けました。自分の言葉を減らし、神のみ言葉に場所を譲ったとも言えるでしょう。ヨセフは、彼の沈黙によって、「人となったみ言葉、すなわちイエスご自身に空間を空けた」のです。
神の「声」である洗礼者ヨハネは、神の「み言葉」そのものであるイエスが現れたとき、「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネ3・30)と言いました。それは、「み言葉である方が語り、私は沈黙しなければならないという意味です」と教皇は言われます。「私たちの中でみ言葉――人となられたみ言葉――が成長するにつれて、[私たちの]言葉は減少する」(聖アウグスティヌス)からです。
教皇は、ヨセフの沈黙についてのカテキズムを、次の祈りで結んでいます。
沈黙の人、聖ヨセフ、
あなたは、福音の中で、一言も語りませんでした。
私たちに教えてください、
無駄な(中身のない)言葉を断つことを、
築き上げ、励まし、慰め、支える言葉の価値を再発見することを。
誹謗・中傷などの、傷つける言葉に苦しむ人々のそばにいてください。
そして、私たちがつねに、言葉と行いを一致させることができるよう助けてください。
アーメン。
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