Sr.ルカの独り言:2021年12月19日:待降節第四主日

ミサ典礼の入祭唱、この季節、何度も繰り返される預言者イザヤの言葉、それでも聞くたびに深く心に沁みます。


天よ、露をしたたらせ、

雲よ、義人を降らせよ、

地よ、開いて救い主を生み出せ。(イザヤ45・8)


このみ言葉は私に、主の降誕に捧げられた、ビザンティン典礼の著名な賛歌を思い起こします。


キリストよ、私たちはあなたに何を捧げましょうか。

あなたは、私たち人間のために、地上に現れてくださいました!

あなたが造った被造物の一つ一つが、あなたに感謝を捧げます。

天使は賛美歌を。天は星を。博士たちは贈り物を。

羊飼いたちは驚きを。大地は洞窟を。荒れ野は飼い葉桶を。

しかし、私たちはあなたに、おとめである母を捧げます。

時代の前からおられる神よ、私たちを憐れんでください!

この賛歌、私にとって最初のころはピンときませんでした。その後、日々、教会の生きた伝統に触れるにつれ、古代キリスト教会の賛歌が、この降誕の賛歌も含めて、言葉では言い尽くせない神秘を、詩の形で見事に表現していることが少しずつ分かってきました。


主の降誕の神秘は、造られたものすべてを巻き込みます。神の御子が、私たちと同じ肉、同じ人間性を、ご自分のものとしてまとってくださったとき、私たち人間は、再び原初の美しさに戻ることが出来るようになりました。楽園の門が再び開かれました。


この贖いのわざは、人となった神の御子の過越の神秘によって完成されるでしょう。そしてそのとき、御子のうちに神の子らとされた人間を通して、全被造物も本来の美しさに戻る動きに参与するでしょう。


今日、12月19日の、教会の祈り、読書課、第二朗読で読まれる、聖イレネオ司教の言葉もそれを証ししています。


御子は罪を罪として裁き、裁かれた罪を肉なる人の外に投げ出すため、「罪深い肉と同じ姿となり」(ロマ8・3参照)、また人をご自分と似たものになるように招いた。すなわち人を神に「倣う者」(エフェ5・1参照)とし、御父の国に招き、人が神を見るようにし(マタ5・8参照)、父を捉えることができるようにしたのである。


主ご自身がわたしたちの救いのしるしとして、処女(おとめ)から生まれたインマヌエルを与えた[…](イザ7・14参照)。つまり、自分で自分を救うことのできない者たちを主ご自身が救ったのである。[…]私たちは自分の力によってではなく、私たちを助ける神によって、救いを得たのである。

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