教皇フランシスコ、カナダ司牧訪問 ~7月24日(日)から30日(土)~

『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』論説[試訳]


https://www.osservatoreromano.va/it/news/2022-07/quo-167/un-pellegrinaggio-penitenziale-per-abbracciare-le-popolazioni-in.html


先住民たちを抱擁する(受け入れる)「悔悛(痛悔)の巡礼」

論説:マッシミリアノ・マニケッティ(Massimiliano Manichetti)氏

(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2022年7月23日)。

[試訳]

教皇フランシスコのカナダでの六日間は、

密度の濃い日々となるだろう。


カナダ国民全体が教皇を待っている。

その一部は、先住民たちのアイデンティティーを絶滅させることを目的とした

文化的同化政策と実践を示した植民地主義的メンタリティーによって、

暴力と剥奪(はくだつ)に苦しんだ、過去の恐怖に傷ついた先住民たちである。


教皇自身、今回の訪問が

「すでに始まっている和解と癒しの歩みに貢献する」ための

「悔悛(痛悔)の巡礼」であると繰り返し述べている。


教皇は再び、先住民たちの痛みと苦しみに触れ、

赦しを願い、祈り、希望と和解の光を運ぶだろう。

それは、真実の探求、記憶の清め(浄化)、

虐待や権力乱用の犠牲者たちへの寄り添いを抜きにしては語れない。


この教皇フランシスコの37回目の使徒的訪問の中心には、

多くの国々と同様に、強く世俗化された状況という課題(チャレンジ)を経験している

カナダの教会との出会いもある。


バチカン・メディアのインタビューの中で、バチカン国務長官ピエトロ・パロリン枢機卿は、

教皇が、共に祈り、自らを「共に歩む巡礼者」としながら、

苦しむ人々への寄り添いを具体的な方法で現すことを望んでいる、と強調した。


***

[以下、インタビュー]

教皇フランシスコはカナダ訪問を準備しています。それは念願の訪問なのでしょうか。


そうです、教皇はこの訪問を強く望んでいました。

訪問の中心には、先住民たちとの抱擁、カナダの教会との抱擁があります。

教皇が先週の日曜日に思い起こしたように。

「私は、イエスの名において、あなた方の間に行きます。

特に、先住民の人々と出会い、彼らを抱擁するために」。


教皇はこれまでも何度か、先住民の人々に大きな関心を示してきました。

司牧訪問先でのさまざまな訪問、バチカンで行われた数多くの出会い、

また、使徒的勧告『愛するアマゾン』などを思います。


教皇はまた、カナダの先住民の人々の場合、

3月から4月にかけて、ローマで彼らの代表者の何人かと出会ったことに続く、

「悔悛の巡礼」であると明言しました。


耳を傾けた後、また最初のいくつかの出会いの後、

今、より広い分かち合いをもつ機会が設けられます。

教皇は数日をかけて、彼らが住むさまざまな場所を訪れます。

その中にはひじょうに離れた場所もあります。

彼らが住んでいる場所で、先住民共同体を訪問することを望んでいるからです。


もちろん、すべての招きに答えることも、すべての場所を訪れることも不可能です。

けれど教皇が、具体的な寄り添いを現したいという望みに動かされているのは確かです。


この場合でも、キーワードは「近しさ(寄り添い)」です。

教皇は言葉を発するだけでなく、

何よりも、近くにいること、自分の近しさを具体的に現すことを意図しています。

ですから、旅に出るのです。

自分の手で、この人々の苦しみに触れるために、

彼らと共に祈るために、彼らと共に歩む(旅する)ために。


***

教皇は4月、先住民の人々、

特に、1800年代後半から1900年代の最後の数十年の間の

寄宿学校内部で責任を負った人々によって引き起こされた悪に、

一部のカトリック信徒が参与していたことに対する赦しを願いました。

出会い、赦し、和解が、この六日間のカナダ訪問を導くのでしょうか。


私たち皆が覚えているように、教皇は4月1日の出会いの中で、

少なくないキリスト者たちの行為に対する恥と憤りを表しました。

彼らは、福音を証しする代わりに、

植民主義的メンタリティーと、過去の政府の文化的同化政策に適合し、

先住民の共同体に深刻な損害を与えたからです。


特に痛ましいのは、

多くの先住民の子どもたちを家族から引き離すことになった、

いわゆる寄宿学校制度における一部のカトリック教徒が果たした役割です。


この歴史的背景が、先に述べたように、

この訪問の悔悛(痛悔)的側面を形成し特徴づけるものであり、

その中で、傷の癒しと和解というテーマが必ず浮き上がってくるでしょう。


しかし、これだけではありません。

ローマで行われた心のこもった出会いに続く、これらの出会いは、

兄弟愛と希望のしるしの中にあるでしょう。

また、先住民の人々が今日も果たしている役割について考えるしるしの中にも

あるでしょう。


実際、すべての人にとって、先住民の人々の価値観や教えを再発見することは有益でしょう。

例えば、家庭や地域共同体への関心、被造物への気遣い、

精神性への重視、世代間の強い絆、高齢者への尊敬…など。


これに関して、教皇は、まさにこの訪問の中で、

イエスの祖父母、ヨアキムとアンナの主日を祝うことを

強く望んでおられるのです。


***

ペトロの後継者は、カトリック教会の信仰を強化し(固め)、

自ら望んで、「聖アンナの湖」への巡礼に参加します。

自然だけでなく、偉大な資源をもつこの国において、

福音宣教の新しい推進力を求めることが出来るでしょうか。


教皇は、あらゆる使徒的訪問の中で、また、より一般的な職務において、

キリスト教共同体を強化するだけでなく、

神の民と共に、信仰における兄弟となり、それを示すことを望んでいます。

自らを、訪問する場所、出会う宗教的伝統における巡礼者としながら。


このようにして、先住民の人々が「神の湖」と呼ぶ「聖アンナの湖」での

典礼のときを経験することを強く望みました。

そこでは、100年以上前から、イエスの祖母、聖アンナをたたえる巡礼が行われ、

多くの病人や、心身に傷を負った人々がその水を浴びているのです。


この特別な場所、ひじょうに示唆的な自然環境の中で、

福音宣教に関して、信仰の源に立ち返ることは美しいことでしょう。


イエスのことを考えてみましょう。

イエスは、人々の心の中に、

聖霊の水、永遠の命のために湧き出る水を注ぎながら、

渇きを潤し、癒しました。


同時に、他の訪問のさまざまな行程でのように、

教皇は、強く世俗化した状況における福音宣教の緊急性を

呼び起こさずにはいられないでしょう。

まさに、世俗主義が、私たちの司牧の優先事項、私たちの言語、

より一般的に、私たちの教会としての在り方、今日、信仰を証しする方法に置く

挑戦(課題)に働きかけるでしょう。


***

訪問のモットーは「共に歩む」です。教皇はこの訪問に何を期待しているのでしょうか。


このモットーは、カナダの先住民共同体と歩んできた道のりを示すだけでなく、

「シノドス」という言葉を呼び起こします。


教皇自身がしばしば繰り返すように、

シノドスは、偶発的な行事ではなく、むしろ、教会のスタイル(様式)です。

私たちは皆、福音の精神、最初のキリスト共同体の精神に基づいて、

互いに耳を傾け合うこと、対話、共同体の司牧的識別、兄弟愛において具体化された

スタイルを身に付けるよう呼ばれています。


まさにこの精神において、

教皇は、兄弟愛を織り成し、平和を築き、

しばしば個人の利己主義だけでなく、

ゆがんだメンタリティーやビジョン(視点)の実りである分裂を克服するよう招く、

福音の預言的言葉を告げずにはいられないでしょう。


この意味で、教皇は、相互愛の大切さを呼び起こしながら、

カナダの教会と社会がすでに始めた和解と癒しの歩みを、

大きく後押しすることを望んでいるに違いありません。


「記憶の清め(浄化)」から出発し、

すべての人――教会も市民社会も――が一致して関与する

兄弟的歩みへの望みを活性化させる歩みです。


多くの分野でそうであるように、

この「共に歩む」ことは、今日、かつてないほど不可欠です。

実際、この方法によってのみ、希望のある未来を築き、開くことが可能なのです。

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