教皇フランシスコと共にみことばを味わう: 主の公現ミサ説教から(2021年1月6日)(2)

[試訳]

「目を上げる(alzare gli occhi,)」


最初の表現「目を上げる」は、預言者イザヤの言葉です。

捕囚から戻ってきたばかりで、

多くの困難のために落胆していたエルサレムの共同体に、

預言者はこの強い招きを伝えています:

「目を上げて、見渡してみよ」(60・4)。


それは、疲れや嘆き(不満)をわきに置き、

狭い視界の場所から出て行き、

つねに自分自身と、自分の関心ごとの上にかがみこむ傾向にある

自己の独裁から、自分自身を解放するようにという招きです。


主を礼拝するためには、先ず「目を上げる」必要があります。

つまり、希望を消す内的幻想の虜になるに任せず、

問題や困難を自己の存在の中心にしないことです。


それは、現実を否定することでも、

すべてがうまくいっていると偽ったり、

幻想を抱くことではありません。


そうではなく、問題や苦悩を新しい方法で見ることです。

主が、わたしたちの困難な状況を知り、

わたしたちの嘆願に注意深く耳を傾け、

わたしたちが流す涙に無関心ではないことを知りながら。


***

人生の波乱にもかかわらず、

主への信頼に留まる、このまなざしは、

子としての感謝を生み出します。

そのとき心は礼拝に開かれます。


反対に、わたしたちが問題にだけ注意を向け、

神に目を上げることを拒むとき、

恐れが心に侵入し、心の方向を見失わせ、

怒り、混乱、苦悩、憂鬱が生じます。


このような状況においては、

主を礼拝することは困難です。

そうであるなら、

この予見された結論の輪を

断ち切る勇気を持たなければなりません。

現実はわたしたちの思いよりも

はるかに大きいことを知りながら。


「目を上げて、見渡してみよ」:

主はわたしたちに、何よりも先ず、

ご自分に信頼するよう招きます。

主はすべての人を気遣い、世話をするからです。


もし神が、今日は野にあって、

明日は炉に投げ込まれる草でさえ、

このように美しく装ってくださるなら、

わたしたちのためには

どれほどの多くのことをしてくださるでしょうか

(ルカ12・28参照)。


もし主に目を上げるなら、

そして主の光で現実を考えるなら、

主は決してわたしたちを見捨てないことが分かります:

「み言葉」は肉となり(ヨハ1・14参照)、

世の終わりまでいつもわたしたちと共にいます(マタ28・20参照)。

いつも。


***

わたしたちが神に目を上げるとき、

人生の問題がなくなるのではありません、

違います、けれど、わたしたちは、

主が、それに立ち向かうために必要な力を

与えてくださることを感じます。


ですから「目を上げること」は、

礼拝へと準備する最初の一歩です。

それは、神の中に新しい喜び、異なる喜びを見出した弟子の礼拝です。


この世の喜びは、財産の所有、成功やその他の類似したものに

基づき、いつも中心には「わたし」がいます。


それに反して、キリストの弟子の喜びは、

神の忠実さに基づいています。

わたしたちがどんな危機的な状況にあるとしても、

神の約束は、決して破られることはありません。


だからこそ、子としての感謝と喜びが、

忠実で、決してわたしたちを見捨てることがない主を

礼拝したいという望みを呼び起こすのです。


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