教皇フランシスコと共にみことばを味わう: 主の公現ミサ説教から(2021年1月6日)(3)

[試訳]

「旅に出る(mettersi in viaggio)」


二つ目の私たちを助ける表現は「旅に出る」

「目を上げる」ことが一番目、「旅に出る」ことが二番目です。

「博士たち」は、ベツレヘムで生まれたばかりの「幼子」を礼拝する前に、

長い旅に立ち向かわなければなりませんでした。


マタイは書いています:

「東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った、

『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

わたしたちはその方の星を見たので、拝みに来たのです』」(マタ2・1-2)。


旅はつねに、変形(trasformazione)、変化(cambiamento)を伴います。

旅を終えた後は、もはや以前のようではありません。

旅をした人の中には、いつも何か新しいことがあります:

知識の幅が広がったこと、新しい人や物を見たこと、

旅の困難や危険に立ち向かう意志の強さを経験した、というように。

わたしたちは、旅に出ることが与えてくれる内的成熟を

先ず通らなければ、主を礼拝するには至りません。


***

私たちは段階的な歩みを通して、主を礼拝する者となります。


経験は教えています、

50代の人は、30代の時とは異なる精神で礼拝を生きていることを。

恵みによって形造られるに任せる人は、通常、

時がたつにつれ、より善くなります:

聖パウロは言います、

外なる人は年をとっても、

内なる人は日々、より良く主を礼拝する心を整えながら、

新たにされていく、と(二コリ4・16参照)。


この観点から見ると、

失敗や危機、過ちは、教訓的経験となり得ます。

それらが、主だけが礼拝されるに値することを

私たちに意識させることを助けるのは稀ではありません。

主だけが、一人ひとりの内奥にある、

いのちと永遠性の渇望を満足させるのです。


さらに、時間の経過とともに、

人生の試練や労苦は、それを信仰の内に生きるなら、

心を清め、心をより謙遜にし、

従って、より神に開くことが出来るようにするのを助けます。

罪の意識、罪人であるという意識、

ひじょうにひどいことを見出したという意識さえも。

「でも、わたしはこれをしてしまった…あれをしてしまった…」

もしあなたがそれを信仰と痛悔、後悔をもって受けるならば、

あなたの成長を助けるでしょう。

聖パウロは言います、

すべて、すべてが、

霊的成長、イエスとの出会いを助ける、罪さえも、と。

聖トマスは加えます、「etiam mortalia(致命的な罪)」、最悪な罪さえも。

もしあなたがそれを、痛悔をもって受けるなら、

それは、主との出会いに向かう旅を助け、

主をよりよく礼拝するのを助けるでしょう。


***

「博士たち」のように私たちもまた、

旅の避けられない困難によって刻印された人生の歩みから

教えられるに任せなければなりません。


疲れや転落、失敗が、

わたしたちを落胆に陥らせないようにしましょう。


その反対に、私たちは謙虚にそれらを認め、

主イエスに向かって進む機会とすべきです。


人生は能力をひけらかすことではなく、

私たちを愛している方に向かう旅です。


私たちは、人生のあらゆる段階において、

自分が持っている徳の証明書を見せびらかしてはなりません。

謙虚さをもって、主に向かっていかなければなりません。


私たちは主を見つめながら、

新たな喜びをもって、前進する力を見出すことが出来るでしょう。

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