教皇フランシスコと共にみことばを味わう: 主の公現ミサ説教から(2021年1月6日)(4)

[試訳]

「見る(vedere)」


そして三つ目の「見る」という表現に行き着きます。

目を上げ、旅に出て、見る。


福音記者は書いています:

「家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられ[るのを見て]、

彼らはひれ伏して幼子を拝ん[だ]」(マタ2・10-11)。


礼拝は、君主や偉大な高官に対して敬意を表す行為でした。

実際、博士たちは、

彼らがユダヤ人の王であると知っていた方を

礼拝しました(マタ2・2参照)。


しかし実際、彼らは何を見たのでしょうか。


彼らは、母と共にいた貧しい子供を見ました。

しかし、遠い国から来たこれらの賢者たちは、

このような殆ど地味で謙虚な場面を超越することを

知っていました。

この「幼子」の中に君主の存在を認めながら。


つまり彼らは、外見を超えて「見る」ことが出来たのです。


ベツレヘムで生まれた「幼子」の前にひれ伏しながら、

彼らは、何よりも先ず内面的な礼拝をしました。

賜物として運んできた宝箱を開くことは、

彼らの心を捧げることのしるしでした。


***

主を礼拝するためには、

目に見えるベールを超えて「見る」必要があります。

外見はしばしば人を欺くものを示すからです。


ヘロデと、エルサレムの名士たちは、

永遠に外見の奴隷である世俗性を表しています。

彼らは見ることを知りません

―私は彼らが信じることを知らないとまでは言いません、

それはあんまりですから―。


彼らは見ることを知りません。

彼らの能力は外見の奴隷であり、

魅力あるものを求めているからです。

外見は、センセーショナルなもの、

より注目を集めることだけに価値を与えます。


他方で、私たちは博士たちの中に異なる態度を見ます。

それを「神学的リアリズム(現実主義)(realismo teologale)」と

定義することが出来るでしょう。

気高すぎる言葉ですが、

もしこういうことが出来るなら、

それは神学的リアリズムです。


それは、ものごとの現実を客観的に認識し、

最終的には、

神がすべての虚飾を忌み嫌うという理解に達します。


主は謙虚さのなかにいます、

主は謙虚な幼子のようです、

まさに世俗性の産物である虚飾を避けています。


この、目に見えるものを超越する「見る」方法が、

しばしば、質素な状況の中に、

謙虚で疎外された人々の中に隠れている主を

礼拝することを可能にします。


ですからそれは、

人工的な花火に目をくらまされることを許さず、

あらゆる機会において、過ぎ去らないものを求める、

主を探し求めるまなざしです。


ですから私たちは、使徒パウロが書いているように、

「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

見えるものは一時的であり、

見えないものは永遠に存続するからです」(二コリ4・18)。


***

主イエスが私たちを、

ご自分の真の礼拝者としてくださいますように。

主の、人類全体を抱擁する愛の計画を、

私たちが生活(生き方)をもって現わすことが出来ますように。


神だけが礼拝されるために、

私たちが礼拝することを学ぶように、

礼拝し続けるように、この礼拝の祈りを実践するように、

私たち一人ひとりと教会全体のために願いましょう。


0コメント

  • 1000 / 1000