Sr.ルカの独り言:(2021年2月10日)私たちの「物語(ストーリー)」の中で…
「独り言」はいつもランダムに話が飛ぶし
人に読んでいただくにふさわしいものではないことは
十分、分かっています。
それでもなぜ「Sr.ルカの独り言」生まれ、
それを人に読んでいただくのか…
「このテーマについて何かを書こう!」と
腕をまくっても、学術論文ならともかく、
読んでくださる方に「語りかける」文章は
なかなか出てくるものではありません。
それでも、日々のありのままの
「私の物語(ストーリー)」の中で
心に留めていたテーマを書くことならできる。
そうやって書き始めた「つぶやき」を
友人たちにぼちぼち送っていました。
ある時、「つぶやき」で申し訳ないけど
こういうものしか書けないので、と書いたら
友人の、キャッチコピーの達人H神父さまが
「それなら『独り言』でいいじゃない」、と。
それからわたしの「つぶやき」は
「独り言」に昇進(?)。
ローマで勉強を終えて帰国してから数年後には
すでに「独り言」が生まれているので
かれこれ10年以上(もうすぐ15年)の歴史をもっています。
***
PAMI(教皇庁立国際マリアン・アカデミー)のプロジェクトの中で
「マリア論オンライン講座」日本語版を始めて(2020年9月から)、
今月、2021年2月で六回目。
一か月に一回、二時間のオンライン講座。
恩師サルバトーレ・ペレッラ師に言えば
たぶん、「たったそれだけ?余裕だろう!」と言われそう。
それでも「独り言」だから敢えて言えば
一つのテーマに、ギューッと詰まった内容、
そもそもすべてを網羅する能力も時間もないのは分かっている、
でも、どの要素をどの程度選んで話すのか、毎回、悩むところです。
***
…で、講座の後で、時々、
熱心に聞いてくださっている参加者の方々から
私が「選ばなかった」要素についての質問が届きます。
「選ばなかった」要素は、
「選んだ」要素を深めて行けば「いつかは」辿り着くかな~と
敢えて選ばなかったのですが…
どうも系統だってすべてを網羅した話をするのは苦手です。
…これはかなりの言い訳です。
「ちょっとそれって情けないんじゃない?」と
呆れるなり笑うなりしてください!…
それよりも「物語(ストーリー)」式の学びが
私にとってはスパイラル的により深く考察できる。
でもこれはあくまで「私にとって」、です。
みんながみんな、
同じように考えるわけではありません。
たぶん、それぞれが自分に「合った」講座なり
先生なりを選べばいいのかな~。
***
ちなみに、現代を代表する神学者の一人、
名誉教皇ベネディクト十六世、
ヨセフ・ラッツィンガー師。
彼の話は難しすぎて…と、よく聞きますが、
私は思います、
もちろん、難しいのは難しい(神学者ですから)
でも、私のような小さな者が敢えて偉そうなことを言うなら
ラッツィンガー師の神学には
「物語(ストーリー)」性がある。
それを強烈に感じたのは、教皇として2005年12月8日、
バチカン第二公会議閉会40周年にあたって話したミサ説教。
それについては、私たちの修道会の季節誌『愛』の
「『マリアと共に』信仰の旅を行く」シリーズの二回目(2007年195号)にも
書きました。
若い神学者であった教皇ベネディクト十六世は、
ケルン大司教ヨゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として、
第二バチカン公会議に参加していました。
公会議三会期終了時(1964年11月21日)の荘厳な典礼の中で、
パウロ六世がマリアを「教会の母」と宣言した時の「物語(ストーリー)」を
ベネディクト十六世は生き生きと語っています。
「それは、私の中に、忘れられない記憶として残っています。
[教皇パウロ六世の]«Mariae Sanctissimam declaramus Matrem Ecclesiae»
―『私たちは、聖マリアを教会の母と宣言します』―という言葉を聞いた瞬間、
司教たちは弾かれたように思わず椅子から立ち上がり、拍手を始めました。
神の母に、私たちの母に、教会の母に敬意を表するために。
実際、教皇[パウロ六世]はこの名称をもって、
公会議のマリアに関する教えを要約し、
その教えを理解する鍵を与えたのです。
マリアは、神の子キリストとの特別な関係の中にのみ
存在するのではありません。
マリアは、人として彼女の子となることを望まれたキリストと
完全に一致しながらも、
同時に、全面的に私たちの側(がわ)におられるのです。
そうです。マリアは、他のどんな人間にも出来ないほど、
私たちの近くにおられます。
なぜなら、キリストは全ての人のために人となられ、
その全存在は『私たちのための存在』であるからです…
教会の頭(かしら)の母は、教会全体の母でもあります。
マリアは、ご自身を全く放棄なさった、ということが出来ます。
キリストに全てを与えつくし、キリストと共に、
私たち全てのために賜物となられました。
実際、人は、自分を与えれば与えるほど、自分自身を見出すのです」。
***
どうですか?感動しませんか?
私はいつも、涙が出ます。
マリアを「教会の母」として宣言した教皇の言葉に
公会議の教父たちが、荘厳な典礼の中で
子どものように思わず立ち上がって拍手を始めた…
その光景が目に浮かびませんか?
「教会の母宣言」の背景には
複雑な神学的、エキュメニカル的問題がありました。
でも、公会議を導くというひじょうに困難な役割を
ヨハネ二十三世から引き継いだ教皇パウロ六世は、
マリアが、教会の成員(メンバー)、典型(typus)、模範(exemplar)、
始まり(initium)、しるし(signum)、姿(像:imago)…であるだけでなく
(以上『教会憲章』第八章参照)
まさに「母としての愛をもって、まだ旅を続けている自分の子の兄弟たち、
また、危機や困難の中にある兄弟たちが幸福な祖国に到達するまで、
彼らを見守る」(『教会憲章』62)、「教会の母」なのだという、
自らの強い確信をもって、この、
決して新しいものではない、伝統的な名称を宣言しました。
***
その半世紀以上後、2018年、
教皇フランシスコは「教会の母マリア」の記念日を
ローマ典礼暦に加えました。
教会の誕生を思い起こす「聖霊降臨」祭日の翌日、
復活節が終わって年間―普通の日々―に戻る、
最初の月曜日に。
***
わくわくしませんか?
神の民の「物語(ストーリー)」の中に
私たちの「物語(ストーリー)」があるのです。
「オンライン講座」を始めたころ
動画として残るのだから
「今」の背景をあまり入れないほうがよいのかな、と
ちらっと思いました。
でも、講座の原稿の準備をしながら
すぐにそれは「不可能」であることが分かりました。
私たちは、教会の「今」を生きています。
世界の「今」を生きています。
今、世界で起こっていること。
この「世」のただ中に響く教会の声、
教皇フランシスコのメッセージ。
それを抜きにして「純粋培養」のようなマリア論は
(少なくとも私にとっては)存在しないことが分かりました。
キリストが「私たちと共におられる、生きておられる神」であるように
その母マリアも、今、私たちの現実の中で、私たちの傍らで、
キリストの兄弟姉妹である私たち、マリアの子である私たちを
母の愛をもって見守り、気遣い、支えてくださっています。
だから「物語(ストーリー)」的マリア論。
***
Sr.ルカ式「マリア論」が合う方は
どうぞこれからも「講座」に参加し
マリアと共に歩む信仰の旅路を分かち合ってください。
どうもこんなやり方は合わないと思う方は
他の学びの方法を見つけてください。
途中で参加を止めても、「恨みつらみ」はありませんから
心配しないでください!
私たちの方からは「なぜ?」とは聞きません。
またちょっと懐かしくなって帰ってきても
「一回止めたのに!」などとは言いません。約束します。
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「マリア論オンライン講座」が
誰でも自由に入ることのできる
「マリアの家」となるように!というのが
私とスタッフたちの願いです。
その家の真ん中には、イエスさまがいます。
イエスさまの周りにマリアさま、ヨセフさま、
そう「聖家族」を中心にした「家」。
時には「飽きて」足が遠のいていても
なんだかやけに帰りたくなって
おそるおそる戸を叩く。
そうすると、何事もなかったかのように
マリアさまがお母さんとして迎え入れてくれる。
聖家族の真ん中でイエスさまと再び会い、
家の中に集まっている「兄弟姉妹」たちと会う。
そんな「マリアの家」に
世界中のマリアン・アカデミーがなってください、と
教皇フランシスコは
「教皇庁立国際マリアン・アカデミー」(PAMI)へのメッセージの中で
おっしゃいました。
***
そんなことを考えていて生まれた、ある日の「独り言」を
次回の「講座」後半で、ちょっとご紹介しようかと
思っています。(だから、今は書きません)
今朝の独り言でした。
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