年間第五木曜日(Albert Vanhoye枢機卿)

Albert Vanhoye, Il pane quotidiano della Parola. Volume secondo – Tempo ordinario/1, Edizione AdP (Ascolto della Parola) 2015.


(創2・18-25;詩128;マコ7・24-30)


今日の第一朗読は、女の創造の物語です。


男と女が違うのは明らかで、

この違いは人々の中に

様々な感情を引き起こし得ます。

自分自身とは異なる誰かが必要なことに、

ある種の怒りを持つ人もいるでしょう。


自分とは違うものを軽蔑する望み(誘惑)を持つかもしれません:

男たちは結婚嫌い、女たちは人間嫌いの望みを持つかもしれません。

つまり、自分の質(クオリティ)を評価し、

それぞれ女、または男を過小評価する望み。


これは非常に強い望み(誘惑)であり、

聖書はこの物語の中で、それに反対します。

この物語の目的は、男と女が互いに補い合うものであり、

彼らの違いは、一致における愛への召命を意味していると

示すことです。


***

古代の最も偉大な哲学者の一人、プラトンは、

輪廻(霊魂の再生)の理論に従い、

すべての霊魂は体を取らねばならず、

天に帰ることが出来るように、

体において正しく生きなければならない、と説明しています。


霊魂は先ず、人間の体の中に行きます。

もし体において悪い行いをするなら、

女の体に移ることを余儀なくされる。

もし悪い行いを続けるなら、

最後には動物の体の中に行くことになる。


このように、プラトンのような知性の水準の人においても、

彼の時代に特徴的な、女への軽蔑が示されます。


***

それに反して、聖書の物語は、

男と女の間に存在する基本的な平等と、深い一致を強調します。


神は創造において、男が助けを必要とすることを確認し、

彼に助けを与えようとします。

そして男は、自分自身において完結していないこと

彼に相応する助けを必要としているという概念を

受け入れなければなりません。


***

それから聖書は、動物たちの創造について語ります。

まさに、女は彼らの水準(レベル)ではないことを明言するために。


実際、多くの文明において、

女は重荷の動物と見なされ、そのように扱われました。


聖書の叙述は、動物が男の水準と異なることを示しています。

ですから男は、動物たちの中に、

彼が必要としている助けを見出すことが出来ません。


創世記は言います:

「人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた

[それは彼らに対する彼の支配を肯定することと同じです]。

しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」。


***

ここで神は、人が必要としている助け手を与えるために

介入します。


創世記のテキストは言います:

「そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。

人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、

そこを肉で閉ざされた。

神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、

人のところへ連れて来られた」。


このように、男と女の間にある深い一致が表現されます。

そして、この一致を男は認識します:

「これこそ、私の骨の骨、肉の肉、

これを女[ヘブライ語でiša]と名付けよう。

これは男[ヘブライ語でiš]から取られたからである」と言いながら。


こうして男は、女が、

彼が必要としている助け手であることを認識します。

―そして、誰かを必要としているということは、つねにある意味で、

その人よりも下位であるということです―。

他方、女は、男を助けるために造られたことを

認識しなければならなりません。


***

明らかに、イエスの教えをもって、

男と女の間の関係の、このような概念の中に変化が生じました。


パウロは、キリストにおいて、

男も女も、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人もなく、

基本的な平等がある:

すべての人はキリスト・イエスにおいて一つである、

と書いています(ガラ3・28;コロ3・11参照)。


私たちは、あらゆる違いを相対化する、

キリストにおける私たちのこの状態を意識しなければなりません。


別の箇所で、使徒パウロは断言します:

「主にあっては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」

(一コリ11・11)。


***

ですから男と女の間には、

彼らを愛において成長させるために必要な、

補い合う関係があります。


実際私たちは、この相違が、

私たちが愛の中に前進し、

相手を受け入れるために私たち自身から出るようにするために、

神が用いた手段であることを知っています。


自分自身と同一の誰かを愛することは、

まだ自分自身の中に閉じこもったままであること、

他者の中に自分の姿を探すことです。

水の中に自分の姿を探して溺れてしまう

ナルキッソスのように。


それに反して、自分とは違う人を受け入れることは、

自分から出て、愛の中で成長することです。


***

聖書は、神の愛について語るために、

男と女の愛以上にすぐれた象徴を見出しませんでした。


雅歌は、若者とおとめの愛を、

神の、ご自分の民に対する愛の象徴として取り入れました。


黙示録の中で、新しいエルサレムは

「夫のために装った花嫁のように」(黙21・2)描かれています。


***

創造物語の中に、教会の教父たちは、

イエスと教会の間の関係が象徴されていることを見ました。


イエスのわき腹は、教会が形造られるために

引き裂かれなければなりませんでした。

アダムの開かれたわき腹から、エバが形造られたように。


このイメージは、

創造そのものから出発して、私たちの本質に根差していて、

私たちに、愛とは何かをより深く理解させます。


***

私たちが、創造とあがないの神の計画を、感謝をもって受け入れられるよう、

神に願いましょう。


神は愛であり、

男と女の間の関係において、

そのような愛を具体的なものにしてくださいます。

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