年間第五土曜日(Albert Vanhoye枢機卿)
(創3・9-24;詩90;マコ8・1-10)
今日、私たちは、
典礼の二つの朗読の間の対比(コントラスト)に気づきます:
第一朗読では
人間が額に汗して糧を得るだろうことが、
福音においては、
群衆が、パンが増える奇跡で、
額に汗かくことなくパンを食べて満腹したことが語られます。
この事実は深い意味を含んでいます:
イエスは、人間の罪を完全に贖い、
人間に、神の喜びにおける真の幸福を与えます。
***
第一朗読の中で、私たちは罪の結果を見ます:
罪は、私たちを神から引き離すだけでなく、
一連の分裂をも生み出します。
男は女に罪を着せ、神に言います:
「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、
その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」
女は、蛇に罪を着せます:
「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです」
このように、二人はもはや一致していません。
***
ですから罪は、常に他者のせいにされます。
これは子供っぽい態度ですが、
もし私たちがよく考えるなら、
私たちもまた、通常、このように振る舞っています:
自分自身にではなく、誰かほかの人に悪の責任をなすりつけ、
私たちの間で分裂します。
***
神のみ心に沿って受け入れた苦しみは、人々を結びつけ、
神のみ心の外で経験する喜びは、人々を分裂させます。
一致は神のみ心の中にのみ、
神のみ心によって私たちに示される神の愛の中にのみ、
見出されます。
もし私たちが、人々の間に一致、友情、愛があることを望むなら、
私たちはつねに神のみ心を求めなければなりません。
神のみ心こそが、心と知性の調和(concordia)の土台、
私たち自身の存在の調和の土台だからです。
***
けれど、この聖書の叙述には、
悲しむべき側面だけがあるのではありません。
それはまた約束も含みます。
神はすでに、罪によって引き起こされた悪を贖うことを
考えているからです。
このようにして、すでに神のいつくしみが現わされます。
神は蛇に言います:
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」。
***
この約束は、イエスの中に、マリアの中に実現されます。
マリアの子、イエスは、蛇の頭を砕きます。
十字架上での死によって、蛇に打ち勝ったときに。
しかしまたマリアも、蛇の頭を砕きました。
私たちは、この約束の言葉に
異なる翻訳があるのを知っています。
ヘブライ語テキストは、蛇の頭を砕くのは女の子孫ですが、
ウルガタ訳のテキストでは
「彼女」、つまり女が蛇の頭を踏み砕くだろう、と言われます。
しかし双方の翻訳とも本当です。
***
私たちは、ヨハネ福音の中に間接的に渡された、
もう一つの要素に気づきます。
創世記の箇所は言います:
「人は妻をエバと名付けた。
彼女がすべての生ける者の『母』となったからである」。
十字架上でイエスは、このエピソードをほのめかし、
弟子に向かって、この言葉を繰り返します:
「見なさい。あなたの『母』です」(ヨハ19・27)。
すべての生ける者の母、
イエスの中に真のいのちを見出したすべての弟子の母は
マリアです。
なぜならマリアは罪人たちと連帯し(solidale)、
彼らから離れることなく、
彼らのために苦しみを受け入れたから・
自分の子の模範に従って。
***
ヘブライ人への手紙は
イエスがすべての罪人と連帯し、
すべてにおいて兄弟たちと似たものとなったと言っています
(ヘブ2・17参照)。
このように、創造の初めに、
神が人間に与えたいと望んだ真の助け手は、
男のための女でも、女のための男でもなく、
双方のためのイエス・キリストです。
イエスは、死に至るまで、私たちの罪にご自分を連帯させ、
それによって、人々と神との一致、人々の間の一致を回復しました。
***
罪の結果と、
私たちを救いたいというご自分の望みを
私たちに、示してくださった主に、
イエスとマリアにおいて、
人間の尊厳を回復してくださった主に、
今日、特別に感謝しましょう。
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