一般謁見(2021年2月10日):日々の生活の中で祈る

[試訳]


愛する兄弟姉妹たち、こんにちは!

私たちは、前回のカテキズムで、

キリスト者の祈りが、どのように典礼に「根ざしているか」を見ました。


今日、私たちは、祈りが典礼から出て、

どのように、つねに日常生活に戻っていくかに

光を当てましょう:街角で、オフィスで、交通機関で…。

そこで、神との対話は続きます:

祈る人は、恋をしている人のようです。

どこにいても、つねに愛する人を心の中に運んでいる人のようです。


***

実際、すべてはこの神との対話の中に取り入れられます:

すべての喜びは賛美の理由となり、

すべての試練は助けを求める機会となります。


祈りはつねに、生活の中で生きています。

炭火の火のように、口が語らなくても、心が語ります。


すべての考え、一見「世俗的」に見えるものであっても、

祈りによって浸透され得ます。


人間の知性にも、祈りに満ちた側面があります。

それは実際、神秘をのぞく窓です。


私たちの前にあるわずかな距離を照らし、

それから現実全体に向かって開きます、

祈りに先行し、それを超える現実へと開きます。


この神秘は、不穏な顔、苦悩の顔は持ちません。違います。

キリストを知ることは、私たちを確信させます。

私たちの目、私たちの心の目には見ることが出来ないところには、

無があるのではなく、私たちを待っている誰かがおられる、

無限の恵みがあることを。


このようにして、キリスト者の祈りは、

人間の心の中に、打ち負かせない希望を注ぎ込みます。

どんな経験が私たちの歩みに触れても、

神の愛はそれを善に変えることが出来ます。


***

これに関して『カテキズム』は言います:


「私たちは、キリストのことばを聞いたり

過越の神秘にあずかったりするときは

祈るようにと教えられます。

しかしキリストの霊は日々の出来事の中でいつも、

祈りをわきたたせてくださいます。[…]

時をつかさどるのは御父です。

したがって、わたしたちが御父にお会いするのは今であって、

昨日でも明日でもなく、今日なのです」(2659)。


今日、私は神に出会います。出会いの「今日」がいつもあります。


***

私たちが生きている今日ほど素晴らしい日は存在しません。

人々はつねに将来のことを考えながら生きています:

「将来はもっと良くなるだろう…」と。

けれど、今日のことをそのまま受け止めません。


それは、空想の中で生きている人々、

現実の具体的なことを、どう受け止めていいか分からない人々です。


今日は現実(リアル)です。今日は具体的です。

そして祈りは、今日、生じます。


イエスは、今日、私たちが生きている今日、

私たちに会いに来られます。


そして祈りが、この今日を恵みに変えます、

いやむしろ、私たちを変えます。

怒りを鎮め、愛を支え、喜びを増し、赦す力を注ぎます。


時に、もはや私たちが生きているのではなく、

祈りを通して、私たちの中に恵みが生き、働いているように

見えることもあるでしょう。


私たちを苦々しさに導く怒り、不満の思いが来るとき、

立ち止まって、主に言いましょう:

「あなたはどこにおられるのですか。

私はどこに向かって進んでいるのでしょうか」


そして、主はそこにおられ、

私たちに正しい言葉、

このネガティブな苦汁なしに前に進むための勧めを

与えてくださいます。


なぜなら、祈りはつねに―世俗的な言葉を使うなら―

ポジティブ(肯定的)だからです。つねに。


祈りはあなたを前に進ませます。

始まる毎日が、もし祈りの中に受け入れられるなら、勇気が伴われ、

直面する問題はもはや私たちの幸福の妨害ではなく、

神からのアピール、私たちの神との出会いのための機会となります。


そして、人は神によって伴われるなら、

より勇気を感じ、より自由を感じ、より幸せを感じます。


***

ですから私たちは、すべてのことのために、

すべての人のために、敵のためにも祈りましょう。


イエスは私たちに「敵のために祈りなさい」と勧めています。


私たちの愛する人たちのために祈りましょう。

けれどまた、私たちが知らない人たちのためにも祈りましょう。

聖書がしばしば私たちに招いているように、

私たちの敵までも愛しましょう。


祈りは溢れる愛に向かわせてくれます。


特に不幸な人たちのために、

孤独と絶望の中で泣いている人たちのために祈りましょう。

まだ彼らのため鼓動している愛があるように。


祈りは奇跡を成し遂げます。

その時、貧しい人たちは、神の恵みによって、

自分たちの不確実な状況の中にも、

キリスト者の祈りがイエスのいつくしみを現存させたことに気づくのです。


実際、主は、深いいつくしみをもって

牧者のいない羊のように疲れ途方にくれた群衆を

見つめました(マコ6・34参照)。


忘れてはいけません、

主は、いつくしみ、近しさ(身近さ)、やさしさの主です。

決して忘れてはならない三つの言葉です。

これが主のスタイルだからです:いつくしみ、近しさ、やさしさ。


***

祈りは私たちが、人々を、彼らの過ちや罪にも関わらず、

愛することが出来るようにしてくれます。


人間自身は、その人の行為よりも、つねにもっと大切です。

イエスは世を裁くのではなく、世を救ってくださいました。


いつも他の人々を裁く人、裁きながら非難する人の人生は

醜い人生です。それは、醜い、不幸な人生です。


イエスは、私たちを救うために来ました。

あなたの心を開いてください。

赦し、人々を正当化し、理解し、

イエスのようにあなたも人々に寄り添い、いつくしみをもち、

やさしさをもってください。


すべての人、そして一人ひとりを大切にすることが必要です。

私たちはみな罪人であり、

同時に、神によって一人ひとり愛されていることを思い起こしながら。


この世をこのように愛し、やさしさをもって愛することによって、

私たちは、すべての日々、すべてのものが、

それ自身の中に神の神秘の断片を内包していることを

発見するでしょう。


***

『カテキズム』はさらに書いています:


「イエスが『幼子のような者』、キリストのしもべ、

心の貧しい人々に明かされた神の国の秘密の中には、

毎日、毎時の出来事の中で祈るということも含まれています。


正義と平和の国の到来が

歴史の進行に影響を与えてくれるように祈るのは

正しくよいことですが、

目立たぬ日常的状況の中に埋もれているものを

麦をこねるように祈りによってこね上げるのも

大事なことです。

どんな形の祈りでも、

キリストが神の国にたとえられたパン種となりうるのです」(2660)。


***

人間は息のようなものであり、草のようです(詩144・4;103・15)。


哲学者パスカルは書いて言います:


「彼[人間]を押しつぶすために、全世界が武装する必要はない。

彼を殺すには、水蒸気、水の一滴で十分である」。


私たちは脆い存在ですが、祈ることが出来ます。

これが私たちの最も大きな尊厳であり、私たちの強さです。

勇気をもってください。

どんな時でも、どんな状況にあっても

主が私たちの近くにおられるのですから、祈ること。

そして、祈りがイエスの心に従ったものであるとき、それは奇跡を得ます。

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