トーマス・スピドゥリック枢機卿『毎日の福音』より試訳(灰の木曜日)
Tomáš Špidlík, Il Vangelo di tutto l’anno, Lipa, Roma 2020.
灰の木曜日:願う祈り(マタ7・7-12)
求めなさい、そうすれば与えられる
祈りに対する反論の一つは、
神が何でも知っているなら、
神ご自身、私たちに何が必要なのか知っているはずだ。
それなら、なぜ願うのか。
神は私たちのことを気にかけ、愛していると知っているなら、
なぜ執拗に求めるのか、というものである。
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聖アウグスチヌスはこの質問に答えようとした。
彼によると、願い事の祈りは、たいていの場合は教育的特徴をもっている。
その祈りをもって、私たちは、私たちが神に依存していることに気づき、
同時に、私たち自身の必要を意識するようになる。
私たちは神に、「私たちの祈りを聞き入れてください!」と祈るが、
それは主の耳が遠いと想像しているからではなく、
私たち自身が、願っていることをよりよく聞き、
私たちの必要と、私たちの状況を意識するためである。
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疑いなく、それは正当な議論であるが、もう一つの理由を加えることが出来るだろう。
祈りの目的は、何か具体的なものを獲得する、または獲得しないということだけではない。
それは何よりもまず、神との個人的な(パーソナルな)関係(接触)を定めることである。
必要な何かをもつことは、その機会を与えてくれる。
人は、神との真の対話を学ぶために「祈りの学校」に行く。
あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか
なぜ、またどのように、賜物が与えられるか見てみよう。
貧しい人が施しを願っても、しばしば一つのコイン(硬貨)しかもらえない。
それに対して、友人同士では貴重なプレゼントを交換する。
それは、私たちが、賜物を受け取る人と結ばれていることを知っていて、
その人を重んじている印である。
両親は子供たちに、さらに寛大であり、
それは子どもたちと結ばれていることを感じている印である。
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最も聖なる三位一体において、御父はすべてを御子に与え、
御子の持っているものすべては、御父から来る。
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祈りは私たちを、地上から神的命へと移し、この神秘に私たちを参与させる。
父である神は、私たちにすべてを賜物として与えることを望んでいる。
ゆえに、私たちに願うよう招く。
私たちに、ご自分が持っているものすべて、
つまり、善いもの、完全なもの、聖なるものすべてを与えることを望んでいる。
神が私たちに与えることを望んでいるものが、私たちが願うべきこと決定する。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」(マタ6・33)。
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神秘家Angelo Silesioは書いている。
「偉大な方である神は、できれば偉大な賜物を与えたいと望んでいる。
残念なことに、私たちの心は、それらを受け取るには小さ過ぎる」
あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる
プラトンやアリストテレスのような、古代の偉大な哲学者たちは、
人類を悩ませている小さな取るに足らない事柄に、
天にいる神が関心をもつことが出来るなどと信じなかった。
より後になって、異教の最後の思想家Plotinoは、別の見解をもった。
彼は、善がそれ自身の中に閉じ込もったままではいられないと宣言した。
神は、あらゆる方向に光線を発散する太陽のようである。
無限の善である神は、いつでも与える準備が出来ている。
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[キリスト教]著作家たちは、これに関して、飢饉の時期、預言者の命令で、女が器の中に注がなければならなかった油についての聖書の物語を参照する。
油は、器が空である限り注がれた。器が満ちた時、油は流れるのを止めた。
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神の恵みにも、同じことが起こる。
神は、私たちが受け取ることが出来る限りのものを、喜んで与えてくださる。
私たちが、自分の心を、その他の関心や欲望から空にすることが出来る度合いにおいて。
自由に受け入れる人にだけ、自由に与えられる。
だから、誰も願うのを恐れてはならない。また、そのことで屈辱を感じるべきではない。
しかし、善い御父から、善いものだけを求めなさい。
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