Tomas Spidlik枢機卿「日々のみ言葉」より[試訳]四旬節第二主日(主の変容)

四旬節第二主日(主の変容)


Spidlik枢機卿は、主の変容の祝日が私たちを招いているのは

内面の回心である、と述べています。


内面にあるもの、イエスが真にどなたであるかが外に現れたのが

主の変容の出来事です―天の神の御子、「光」である方―。


同じように、私たちは、内面の回心を通して

私たちが真にそうであるところのものが、表に現れます。


つまり、神の「かたどり」、「似た者」として造られた存在、

神が「ひじょうに善かった・美しかった」と言った存在。


私たち人間の内奥にあるのは、ですから、

善と美である神のイメージです。

それを「内面の回心」の歩みを通して回復するのが、

復活祭に向かう四旬節の歩みだ、とも言えるでしょう。


以下、Spidlik枢機卿の言葉です。


***

あるお母さんが、息子の学位取得試験のために町にやって来ました。

彼女は、たくさんの新しいことを見ました:大学の環境、大きな教室、多くの若者…。

しかし、最高の驚きは、自分の息子からでした。

彼女の中では、彼はいつも小さな子どもでした。しかし今、誰になってしまったのか。

彼は教壇に座り、教授たちの質問に答えています。

彼女は自問します:「まだ私の息子なのだろうか。何と変わったことか!」


***

あらゆる人は、成長しながら変わります。良い方に、または悪い方に。

母親たちは、そのような変化は好まず、

子どもが小さいままであってほしいと望む、と言われます。

子どもが成長しながら変わっていき、

もはや以前と同じようではなくなると想像し、

成長を恐れるのです。


しかし、人は、変わると、もはやその人ではなくなってしまうというのは、

本当なのでしょうか。


私たちは区別しなければなりません。

良い方に変わることと、悪い方に変わることの結果は、同じではありません。


悪い方への変化は、ドストエフスキーが、

小説『罪と罰』の中で、深い心理学的観察とともに描写しています。


学生ラスコーリニコフは殺人者になります。

しかし、誰がそれを知ることが出来るでしょうか。

彼自身が自首するまで、それを証明するのは難しい。


彼の母と姉妹は確信していました。

彼らは、ラスコーリニコフがひじょうに変わってしまい、

もはや以前のようではないことに気づいていました。


人は、内面の特徴を明らかにしながら、

真の自分(ありのままの自分)を現わします。

学位を取得した、あの息子の例のように。


タボル山での主の変容も、この意味において理解されるべきです。


***

主の変容の神秘は、ラテン語とギリシャ語で、

二つの言葉によって示されます。


ラテン語はtransfiguratio、ギリシャ語はmetamórphōsis。


ギリシャ語の用語は、福音書の原語ですが、あまり適切とは言えません。

それは形(フォルマ)、外観の変化を意味します。

これは、ラテン語の用語transfiguratioの意味でもあります。


もしイエスが、ご自分の形(フォルマ)を変えたとしたら、

もはやイエスご自身ではなくなり、

使徒たちは彼を認識せず、誰かほかの人と思ったでしょう。


それに反して、使徒たちは、たとえイエスが変容しても、

それがイエスであることを良く知っていました。


それならば、イエスの中の何が変わったのでしょうか。


変化は、光の中にあります。


使徒たちはイエスを、

その中で普通の日々に彼を見ていた光とは違う、別の光の中に見ました。


しかしこれもまた、物質的意味で捉えるべきではありません。

それは、スポットライトによる何らかの効果ではなく、内面の発見に依ります。


彼らはイエスを、真の姿、すなわち天の父の御子として見ました。


***

だから私たちは、なぜ変容の祝日が、東方教会の修道士たちから、

あらゆるキリスト者にとっての回心のプログラムとして考えられていたかを、

理解することが出来ます。


この伝統を知らない人は、

なぜこの福音の話が、四旬節の始めに読まれるのかと自問します。

その荘厳な外観のために、復活節により適しているように見えるからです。


しかし忘れてはなりません。

四旬節は、回心の時、良い方への変化の時であるべきことを。


ゆえに、そのような状況の中で、人は、その人の真の姿を現わし、

天の御父の子としての自分のアイデンティティを見出すでしょう。


***

四旬節の説教師たちは、彼らの訓戒を、特に外面的回心に集中させていました。

酒飲みの悪癖が広まっている村々では、

アルコール依存症に対して烈しく叱責しました。

夫婦間の忠実さがあまり望まれていなかったところでは、

説教は特に家庭の「清さ」に集中されました。

少人数しか教会に来ないところでは、祈りと秘跡の大切さが語られました。


キリスト者の生活は、新しい形を受け取るために、刷新されなければなりません。

けれど、外的回心は、内的回心なしには続かないことは明らかです。

ある人が、四旬節の説教師をたたえて言いました:

アルコール依存症に反対するあなたの熱心な説教の後、丸一週間、

村中で一人の酔っ払いも見られなかった、と。


***

永続的な回心は、内的回心だけです。


でも、どうやってそれが起こるのでしょうか。

古代のストア(禁欲)主義者たちは、この問題に専念しました。


いくつかのことは私たちを悲しませ、他のいくつかのことは私たちを喜ばせ、

さらに別のことについて、私たちは無関心であるという経験を指摘することから出発して。


私たちは不愉快なこと(気に入らないこと)を避けようとしますが、

いつも成功するとは限りません。

毎日、私たちは、何か気に入らないことに出会います。

どこからこの失敗が来るのでしょうか。私たち自身の中からです。


私たちは、本当は、自分自身を変えなければならないのに、

自分の外側にあるものを変えようとします。


私たちは、何か小さなことを失うと嘆きますが、

それが大したことではないことを学べば、嘆くことはありません。


***

キリスト教著作家たちは、この考察をより深く発展させました。

ものごとの評価を変える必要があります。言うのは簡単です。

しかしそれは幻想ではないでしょうか?


ある人が死んだら、

妻は、それが大したことではないと思いこまなければいけないのでしょうか。


ものごとをありのままに(それが真にどういうものであるかを)見ることを

学ぶ必要があります。


反対する人がいるかもしれません。

それなら、ものごとは本当に私たちを悲しませる、と。いつも、そうだろうか。


私たちがさまざまなものと和解することが出来る、唯一の方法があります。

神ご自身がそれらを見るように見ること(神の視点でものごとを見ること)


創造の時、神はすべてを善いものとして見ました(創1・4~参照)。

確かに、罪をもって世は変わってしまい、悲惨なことが多いのも事実です。

しかし、すべては神のみ摂理の手の中に留まっていて、

最終的には、不遇(不運)も、私たちを善に導くでしょう。


教父たちは、物理的な悪と、道徳的な悪を区別しました。

物理的な悪の例は、地震、洪水、病気、死です。神はこのすべてを善に変えることが出来ます。


それに対して、道徳的な悪、つまり罪は、神の摂理から逃れているように見えます。

実際、神は、私たちの内的回心なしには、それを善に変えることは出来ません。


***

そこから、絶え間ない内的回心の必要が来ます。


それを、他の人々との私たちの関係に見ることが出来るでしょう。

私たちにとって不愉快な人々が、私たちを挑発するのは簡単です。

私たちは彼らを非難し始め、彼らも同じことを私たちにします。喧嘩が起こります。

多くの家族の中で、状況は耐えきれなくなり、分裂に至ります。


しかし、分裂とは何でしょうか。

それは、内的回心のない、外的変化です。


ゆえに、それは望む結果には導きません。

だからこの場合にも、内的態度から始めるべきです。

しかし、どうやって?


ある女性が、告解で、自分の夫をひじょうに辛辣に非難しました。

もはや夫を我慢することが出来ない、と宣言しながら。


聴罪司祭は、彼女に次の勧めを与えました。

「一冊のノートを買いなさい。

毎日、あなたの夫が行った、ひじょうに小さな良いことを、

少なくとも一つ書いてください。書いたことを、しばしば読み返してください。

最後には、もしかしたら、あなたの夫が思ったよりも悪い人ではないことを

発見するかもしれません」。


***

しかしまた、私たちは人生において、自分自身を見つめて苦しみます。

何をやっても成功しない、自分のための時間がない、または、

他の人々が自分のことを真剣に考えてくれない。


この場合も、ノートを買って、

私たちが成功したこと、生きている価値があると思ったことを

書き留めることは有益でしょう。


善いものを見出すということは、私たち自身を変容させるという意味です。

そしてこの内的変容をもって、世界を変えるという意味です。


その時、キリストの変容の祝日は、私たちの日々の生活にとっても

意味を持つようになります。




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