Tomas Spidlik枢機卿「日々のみ言葉」より[試訳]四旬節第二月曜日

四旬節第二月曜日:神の慈しみと、人間の慈しみ

(ルカ6・36-38)


***

慈しみ深くありなさい


慈しみ深い人とは、慈愛に動かされる

繊細な心をもっている人です。

慈しみ深い人は、貧しい人を助け、

苦しんでいる人に耳を傾け、慰めようとします。


***

私たちにとって、心は、感情の「場・シンボル」です。


聖書の言語において、心はひじょうに深い意味を持っています:

心の中に、すべての内的生活が集中します。

心は、選び、決心します。

しかし何よりも先ず、心の中で、私たちが経験したことすべての記憶を保ちます。


それらは、出来事の記憶ですが、

特に、私たちが出会った人々、

その人々が私たちの中に生じさせた印象についての記憶です。


この意味で、慈しみ深い人は、

心の中に、人生で出会った人々を記憶し、その人々に忠実であり続ける人のことです。


***

記憶は、現代の混乱の中で、容易く失われる徳です。

私たちはあまりにたくさんの人に出会い、その人々を忘れます。

今日、誰かが私たちを感動させ、明日、私たちはその人を忘れます。

私たちの慈しみは、表面的、感傷的になり、

安定性、記憶、忠実さの根を失っています。


***

あなた方の父が慈しみ深いように


詩編の中で私たちは、神が私たちに対して慈しみ深くあるようにと願います(詩4・2;6・3参照)。

または、神のの偉大な慈しみに感謝します(詩107・1参照)。


これらのテキストの中で、慈しみには二つの顔(表情)があります。


神は私たちのみじめさ(miseria)を見て、心を動かします。

エジプトからのイスラエルの人々の解放は、

神の慈しみの行為として示されます:

「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、

追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。

それで、私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出す」(出3・7、8)。


***

それより後、イスラエルの人々は変わり、もはや掟を守らず、不忠実になりました。

この不忠実さ、移り気にも関わらず、神はつねに彼らの側に留まります。しかし異なる方法で。

神は慈しみ深く(misericordioso)、アブラハムにした約束に常に忠実に留まります。


***

あらゆる時代の人間は、不安によって苦悩し、

つねに救済措置のための錨を求めます:お金、友人、権力。

しかし、地上におけるあらゆる防御は弱いものです。

異教徒たち自身、安心は神々のうちにのみあると言いました。

しかし神々は条件を置き、彼らの命令を守る人にのみ好意的です。


***

聖書の神もまた、従順を求めます。

けれど、あらゆる状況の中で、またあらゆる私たちの不忠実さの中で

ご自分を何よりも「父」として示し、罪を犯す者たちに対しても忠実であり続けます。

父である神は赦し、慈しみに満ちています。


***

あなた方が量る計りで、あなた方も量られる。


***

人間は神の「かたどり」「類似(似た者)」に造られました(創1・26-27参照)。

ですから、この類似は、何らかの方法で見えるはずです。

いつ、人間の中に神が認識されるのでしょうか。


***

ニュッサのグレゴリオスは答えます:神は、慈しみのわざの中に認識される。


天での報酬は、神の似姿に比例しているので、

一人ひとりが隣人を量った量りによって評価されます。


***

例を与えるために、おとぎ話の力を借りる説教師もいます。


昔々、敬虔な王女がいて、城壁内に住むすべての人を夕食に招きました。

けれど彼らは、給仕された皿に、ひじょうに奇妙なものが載っているのを見て驚きました。

それは、パンの固い皮、小銭、フォカッチャ。

これは何だったのでしょうか。

それは彼ら自身、前の日に、村に来た物乞いに与えた僅かなものでした。

その物乞いは、変装した王女に他なりませんでした。

彼女は今、一人ひとりが皿の中に、彼女自身が与えられたものを見出すようにさせたのです。


***

これはおとぎ話に過ぎません。けれどそれは、永遠の命に関連付けることが出来るでしょう。

それは本質的に、私たちに対する神の態度、そして神に対する私たちの態度を特徴づけています。

0コメント

  • 1000 / 1000