Sr.ルカの独り言:お告げの祭日に~読書課の朗読から~(2021年3月25日)
神のお告げの祭日の読書課には、聖レオ一世教皇の手紙が読まれる。
聖レオと言えば、イエス・キリストが「真の神」であり、同時に「真の人」であるというキリスト教の真理を力強く擁護した聖人だ。
興味深いのは、お告げの祭日に読まれるこの手紙は「私たちの和解の神秘」についてであり、その中身には、マリアの「マ」の字も出てこない。
キリスト教伝統は、「お告げ」の出来事が、三位一体の神の贖いのわざの決心の実りであると語る。例えば、アンドレイ・ルブリョフの三位一体イコンを、この文脈で黙想している書もある。つまり、あの静寂な美しい調和の中に描かれている三位一体の姿は、ご自分の完全な交わりの中で満足して静止している神ではなく、私たち人間のために、自らを明け渡し合う「動的」な神を表している、と。
ご自分が「善いもの、美しいもの」として造った人間が、罪と弱さで「泥だらけ」になっている姿をご覧になり、贖うことを決心した神が、天使をナザレのマリアに送る。アブラハムの召命から始まる神の民イスラエルの歩みという文脈の中で。
T. Spidlik師は、だから、お告げの出来事を、世界の意味、命の意味の成就、と表現している。真の神、真の人であるイエス・キリストの中に、神の世界と人間の世界が完全に一つに結ばれ、もう決して切り離されることがないからだ。
聖レオ一世教皇の手紙に戻ると、彼特有の神の「逆説(パラドックス)」の理論を展開しながら、この「和解の神秘」を考察する。
「尊厳は卑しさを、力は弱さを、永遠性は死すべき状態を受け取りました。そして私たち人間の担っている負い目を解くために、侵しがたい本性は苦しみうる本性と結合したのです。こうして、神と人との唯一の仲介者である人間イエス・キリストは、その一つの本性ゆえに死にうるものとなり、他の一つの本性のゆえに死に得ないものとなりました。このことこそ、わたしたちをいやすためにふさわしいことでした」。
ですからイエス・キリストは、「自己に固有なもの」つまり神性をすべてもち、同時に「わたしたち人間のもの」つまり人性を「すべて完全に」もっている。それは神の「あわれみの心から出たへりくだり(あわれみに満ちた自己卑下、降下:un abbassarsi misericordioso)」である、と聖レオは表現する。
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祭日の集会祈願からも黙想できるように、神のお告げの祭日は、何よりも先ず、私たちの唯一の仲介者、あがない主である、真の神・真の人、イエス・キリストの神秘を見つめる日である。
集会祈願文を、イタリア語からの試訳で見てみると。
すべてに先立って「父である神」の望みがある。
その望みとは何か:「ご自分のみことば(il Verbo)が、おとめマリアの胎の中で人となること」。
なぜか:「真の神、真の人である私たちのあがない主を礼拝する者たち[私たち]が、その永遠のいのち(vita immortale)に参与することが出来るように」。
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ゆえに、お告げの出来事の中で成就したことは、「私たちの」あがないわざである、と言えるだろう。確かにそれはまだ「始まり」である。しかし、神は約束したことを必ず実現される。しかも、つねに、私たちに人間にとって、考えもつかない驚くべき方法で。
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お告げの祭日の中心に、父である神の望みに「はい」と答えた、御子イエス・キリストがいる。御子の「はい」の中に、神の民イスラエルの娘マリアの「はい」が共鳴する。さらにはヨセフの「はい」、使徒たちの「はい」、二千年の教会の歩みの中でキリストに従って父の家に向かって旅をしている、すべての神の子の「はい」が、御子の「はい」の中に収斂されていく。
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マリアの「マ」の字も出てこない聖レオ一世教皇の手紙は、何と「雄弁に」マリアのことを語っているだろうか。折しも、教皇フランシスコは、祭日前、24日の一般謁見の中で「マリアとの交わりの中で祈る」ことを黙想し、マリアは何よりもイエスの「弟子」であることを強調している。弟子であるマリアの姿を黙想させるOdigitria(ホデゲトリア)、「道の聖母」(「道」である御子を示す方)のイコンについて語りながら。
「マリアは『仲介者[キリスト]』を指し示しています:彼女はOdigitria(ホデゲトリア)です。キリスト教イコノグラフィーの中で、あらゆるところにマリアが描かれています。時にはひじょうに強調されて。けれどいつも、御子との関係の中で、御子に依存して。彼女の手、彼女のまなざし、態度は生ける『カテキズム』で、それらはいつも基盤、中心を指し示しています:イエスを。マリアは全面的にイエスに向いています(『カテキズム』2674参照)。その点で、私たちは、マリアが母であるより以上に弟子であると言うことが出来るでしょう。…」。
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