Sr.ルカの独り言「沈黙の土曜日」の中で…主の復活のとき、マリアはどこにいたのか(2021年4月19日)

ここから、復活節の「独り言」として、

「マリアはどこにいたのか」について黙想したことの実りを分かち合いたいと思います。

異なる機会に書いたものなので、ところどころ重複しますが、

文脈を保つために全文を分かち合わせていただきます。


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典礼がよく示しているように、

旧約の神の民の娘、新約の民の初穂、キリストの最初の弟子であるマリアの神秘は、

キリストの神秘の中で、

さらには、旧約・新約を含む、神のあがないのわざ全体の中でのみ、

理解されるのだろう。


十字架にかけられたキリストが、

真の人でありながら真の神であることを「知って」いたのは、マリアだけである。


神の天使から告げられたお告げの言葉を

旧約の、メシヤ・インマヌエル預言と照らし合わせ「翻訳」し続けていたマリア

マリアの希望は、だから具体的な、受肉した希望である。


マリアは、わが子の十字架の下で、母として嘆いただろう。

けれどそれは、絶望的な嘆きでも、恨みでも、あきらめでもなかっただろう。


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「沈黙の土曜日」と呼ばれる聖土曜日。大地が、全被造界が沈黙する土曜日。

母の沈黙。


マリアが母として、究極の苦しみの中にあっても

イエスのように心を父である神に、他者に開き続けることが出来たことこそ

愛の勝利、奇跡ではないか。

人間の心を、憎しみ、恨み、あきらめで満たすことが、悪魔の勝利であるように。


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東方正教会の「聖なる過越の三日間」の典礼テキストは、「真っ黒の闇」、聖金曜日から、

復活の光が浸透し始める「白い」土曜日、聖土曜日へと移行する。


[参照]

Olivier Clément, Morte e risurrezione, in Alexander Schmemann – Olivier Clément, Il mistero pasquale, Lipa, Roma 2003, pp. 70-73.


少しずつ、神のケノーシスの前での聖なる恐れ、「敵」に対する勝利の戦いの喚起から、

典礼テキストは、shabbat(安息日)の成就である

「白い土曜日(Sabato bianco)」の平和へと通過する。

「白」、なぜなら、金曜日の「黒のわざ(opera al nero)」の後、

すでに曙のように、「過越(復活)Pasqua」の光が浸透しているのを見るから。


***

この「白い土曜日」という表現は私たちに、聖土曜日の意味と、

その中での主イエスの母マリアの存在、使命を観想させてくれる。


東方正教会の典礼テキストの中で、主の母マリアへの言及は「ない」。


マリアはすでに「教会」となっていく。

アシジの聖フランシスコは、マリアを「教会となった処女(おとめ)」と呼んでいる。


聖土曜日に、マリアは、神の側ではなく、「私たちの側」、神の民の一人として

何よりも先ず、キリストの最初の、最も完全な弟子として

十字架の下で生まれた教会の中に、静かに存在する。


黒い闇、聖金曜日の後、

復活の光、「新しい日」、八日目の始まりの光が、かすかに射し始める聖土曜日。


その光は、土曜日の夜、主日の始まりである復活徹夜祭において

地上に、世界に、全被造界に「突入する(fare irruzione)」


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マリアとの交わりの中で祈る(教皇フランシスコ)


教皇フランシスコは、イエスの母マリアが、私たちと同じ人間であり、

民の一人、私たちの一人であることを強調する。


水曜日の一般謁見での祈りについてのカテキズムの中で、

「マリアとの交わりの中で祈る」(2021年3月25日)ことについて話したときも、

それを繰り返している。


第二バチカン公会議とそれ以降の教会の教えの中でも、

マリアが「あがなわれた者」であることが確認されている。


マリアは、あがない主の母となるという特別な使命のために

最も完全な、並外れた方法であがなわれたが、

それでも「あがない主」によって「あがなわれた者」であることに変わりはない。


第二バチカン公会議の最初の文書、『典礼憲章』(1963)の103項は、

「教会はマリアのうちに、あがないの卓越した実りを感嘆し、ほめたたえる」と

言っている。


***

マリアは、だから、キリストにあがなわれた世界の中にいる。

自分であがなう力をもつ者ではなく、あがないを必要としている、私たちの側にいる。


旧約の時代から、神の救いのわざに協力するよう招かれ、その使命を忠実に生きた

アブラハムから始まる数えきれない人々の列の中にいる。


たとえ、神の母となるという、まったく特別な使命においてであっても、

マリアは民の一人としてとどまり、そこにマリアの偉大さがある。


マリアは、アダムやエバのように、「神のようになりたい」という誘惑に陥ることなく、

自分の使命におごることなく、「主のはしため」としての歩みを生き抜いた。


神からより大きな「いつくしみを受けた者」であればあるほど、

いつくしみ深い者になるならば、

存在の深みからいつくしみを受けたマリアほど、いつくしみ深い者はいないだろう。

(教皇フランシスコ、いつくしみの主日ミサ説教参照:2021年4月11日)


実際、キリスト教伝統はマリアを「いつくしみの母」と呼び、

特にロシアの地で発展した「いつくしみの聖母」イコンは

私たちの心を惹きつけずにはいられない。


マリアはわが子の十字架の下に至るまで、

いつくしみを受けた存在を閉ざさなかった。

ここに、マリアの偉大さがある。


母の偉大な「過越」


わが子の十字架の下での、母の苦しみの最中で、

イエスは母に、ご自分の弟子たちの母、さらにはすべての人の母となるように求める。

わが子の上だけに屈みこみ、嘆き悲しむのではなく、すべての人の母となるように、と。


母としてのマリアの、偉大な「過越」と言えるだろう。

遠い昔、「はい、私は主のはしためです。

お言葉どおり、この身になりますように」と答えたときから、

マリアはわが子が、自分のものではないことを、苦しい経験を通して理解していく。

少しずつ、過ぎ越していく。その頂点が、十字架の下。


イエスは母に、自分の死の上にかがみこんで嘆くのではなく、

恐れと混乱の中で逃げて行った迷える使徒たちを集める母としての使命、

裏切った弟子たちを赦し慰め抱き寄せる母としての使命を託す。


それは決して簡単な「過越」ではなかっただろう。


この「過越」を通して、マリアは生まれつつある教会の始まり、

範型、イコン…となっていく。


マリアはすでに「教会」だった…


主の復活のとき、マリアはどこにいたのか。


マリアはすでに「教会」であった、と言えないだろうか。

キリストのわき腹から生まれた教会、

キリストの血(聖霊)によって生かされている教会の象徴として。


アダムのわき腹か生まれたエバが、アダムの肉の肉、骨の骨であったように、

新しいアダム、キリストのわき腹から生まれた教会は、キリストの肉の肉、骨の骨、

キリストの「体」である。


永遠のいのちで刻印された、キリストの「体」である。


「体」であるから、「頭(かしら)」であるキリストと、

決して解くことの出来ない絆で結ばれている。


聖書の中でマリアが最後に現れるのは、

エルサレムの高間―最後の晩餐の部屋―で使徒たちとともに祈っている

新しく生まれつつある教会の一部としての姿である。


教会は、神の偉大なわざの前で驚嘆する…


神の偉大なわざは、人間の想像力、理解力を超える

教皇フランシスコは、主の復活祭の翌日、

2021年4月5日の「レジナ・チェリ」の祈りの中で

「主が復活した」と言うことが出来たのは、

神の力をもって天使だけだったことを思い起こしている。


教皇フランシスコの言葉を試訳で聞いてみよう。


復活祭の後の月曜日は天使の月曜日とも呼ばれています。

天使と、イエスの墓に着いた女性たちの出会いを

思い起こすからです(マタ28・1-15参照)。

女性たちに天使は言います:

「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5-6節)。


この「復活なさった」という表現は、人間の能力を超えます。

墓に行って、墓が空(から)であることを見た女性たちも、

「復活なさった」とは言えず、

ただ墓が空だったと言うことしか出来ませんでした。


イエスが復活なさったということは、

神の使いとしての力、神から与えられた力をもっている天使だけが

言うことが出来ました。


天使だけがマリアに、

「あなたは身ごもって男の子を産み[…]

その子はいと高き方の子と呼ばれる」(ルカ1・31)と言うことができたように。


私たちが「天使の月曜日」と言うのは、

神の力をもつ天使だけが「イエスは復活なさった」と言えるからです。

(教皇フランシスコ:「レジナ・チェリ」の祈り:「天使の月曜日」2021年4月5日)

1コメント

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  • Hitomi Kobayashi

    2021.05.02 13:00

    この一年間、マリア論を拝聴して参りました。正直に言えば、まだ頭で受け止めようとしている状態です。 しかし、繰り返し聞いてゆく中で沁みてくる言葉があり、それがこのシスターの独り言と重なると、平面が3次元4次元になるように生き生きと感じられます。感謝です。 これからも続けて参ります。マリア様の、痛みを糧に立ち続ける力強い信仰をこの身に置きたいです。Loyola H.