Tomáš Špidlík枢機卿の、日々のみ言葉の黙想[試訳]復活節第三木曜日(ヨハ6・44-51):永遠の命への信仰

復活節第三木曜日(ヨハ6・44-51):永遠の命への信仰

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預言者の書に書いてある:彼らはみな、神によって教えられるであろう


イザヤ(54・13)、エレミヤ(31・33)は、

メシアの時代、新しいエルサレムにおいて、すべての人は神の弟子となり、

主ご自身が彼らの心の中に律法を書き記すだろうと預言した。

その時代はすでに来たのか、それともこれから到来するのか。


ある司祭が司牧的活動を始めるとき、ひじょうに熱意に燃えているので、

彼自身が、神から離れた人々、または神を知らない人を探し、

彼らに神のことを話さなければならないと思う。


時と経験を重ねて、彼は気づく。

キリストご自身が、ご自分がすでに訪れた人々、キリストの現存をすでに味わった人々を

彼に遣わしていることに。


対話の中で人々は、時に、彼らの繰り返される考えについて語る。

現れ、戻って来て、また戻って来る考え。どこから来たのか、なぜかは分からない。


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教父たちもまた、もっと昔に、これらの霊的動きについて討論した。

教父たちは、ある考えが理由もなく突然やってきて、魂を慰めと平和で満たし、

それと共に、自分自身を見つめるための新しい光や、

人生の選択をするための新しい能力(判断力)をそっと運んでくることに気づいていた。


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神のインスピレーションを受けた考えは、日常的である。

実際、聖務の朝課の始まりの詩編の中で、毎日読まれる:

「今日、神の声を聞きなさい。心を閉ざしてはならない」。

神によってインスピレーションを受けるに任せなさい、

そうすれば、神の考えが、あなた方の考えになるだろう。


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父から聞いて学んだ者はみな、わたしの所に来る


古い生活から、キリストと共に生きる生活への移行に伴う心の状態を説明するのは、

主に回心者たちである。


多くの人の困難は、自分の心の中の、良心に語りかける声としての神の現存を認めないことではない。


困難は、隣人の中に、毎日の生活の中に、教会機関の中に神を認めることである。


だからこそ私たちは、もう一歩、進む必要がある:

ただ神を信じる信仰から、

受肉の経験へ、私たちの中におられる神、イエス・キリストへの信仰へと。


もし信仰の歩みが誠実なら、遅かれ早かれ、

受肉した神との出会いに至る。


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『ロシアの巡礼者(Il pellegrino russo)』の無名の著者は書いている:


「それはまるで、目が開かれ、すべてのものの中にイエスを見るかのようだった。

大地に接吻し、花や出会う人すべてを抱きしめたくなった…

あらゆることが私を突き動かし

『主イエス・キリスト、神の御子よ、罪人の私を憐れんでください!』と言わせた」。


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信じる者は永遠の命をもっている


知的な討論や人間の力で、受肉した神、イエス・キリストの知識には到達しない。

その知識は神の照らしであり、信仰である。


洗礼の儀式の中で質問される:

「あなたは何を求めるのか」「信仰を求めます」

「信仰はあなたに何を与えるのか」「永遠の命を与えます」

それは単純な問答のように見えるが、深い神学的真理を含んでいる。


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人生は時間と共に過ぎる。しかし時間は人生に意味を与えない。

出会いが人生を豊かにし、人々の間に信頼を造り出す。


信仰において、神ご自身が私たちに語り、私たちは神に答える:

神の言葉を聞き、自分自身を神のみ手の中に信頼をもって置きながら。

これが、私たちの人生における神との出会いの実りである。

人生の中で出会う人々は去っていき、死んでいく。

それに反して、神は永遠であり、決して私たちを見捨てない。

信仰において神と出会いながら、

私たちは、すでにここで、今、永遠の命の中に入る。

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