善い知らせ 三位一体の祭日の福音(マタイ28・16-20):「見よ」

https://www.osservatoreromano.va/it/news/2021-05/quo-116/ecco.html


Giovanni Cesare Pagazzi氏

(2021年5月25日付『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』)

[試訳]


「見よ(Ecco)、わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」。


人は「見よ(御覧なさい)」と言って、相手の注意を何かに向けさせる。


相手に、明白で、評価に値することであるが、気づいていない何かを示す。もしかしたら、散漫、表面的であるために。または、注意を促された人が、まったく他の状況、考え、事柄にとらわれているために。


復活の主はご自分の弟子たちに「見よ(Ecco)」と言う。どこに彼らの注意を向けさせようとしているのか。明白でありながら、考慮されていない何を示しているのか。それは、ご自分の存在、ご自分の寄り添い。「わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と言った」(イザ65・1)。


復活の主の目には、現実で、生き生きとした、効力のある、理解できないほどの気遣いで震えるご自分の現存の、疑いようのない幸い、幸せな運命に、私たちは気づいていない。教会の過去に引き寄せられたり、その将来に惑わされたりして、私たちの日々の光と影の中で、「生きている方」が身近に働いておられることを、私たちは感じない。


***

「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」。そうだ、晴れの日、雨の日、太陽を隠して雨を与えない白い空の日々においてさえも。期待に満ちた土曜日、完成の日曜日、疲れを感じる月曜日、苦しみの神秘に満ちた金曜日、道の途中にいるような水曜日と木曜日。魂が聖性の中で大きくなる勝利の日々にも、罪の中で麻痺しているのを見出す日々も。


「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」。私たちはそれに気づいているだろうか。


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