Tomáš Špidlík枢機卿の、日々のみ言葉の黙想[試訳]年間第8水曜日
年間第8水曜日:マルコ10・32-45:隣人に仕える
あなた方は自分が何を願っているのか分かっていない
自然界の中で、植物は上に向かって伸びながら育ち、より多くの光を得るために、互いに、より高くなろうとする。人間もまた、互いに絶え間なく競争し、他の人よりも優れた者になろうとする。それが出来て、成功した人は、通常、最初から自分が何をしたいのかを知っていて、目標を決して見失わず、あらゆる行動を目的に向け、集中し、一貫している。
***
使徒たちもまた、成功するためにイエスに従った。彼らはイエスの中に、将来の王、メシア(救い主)を見た。イエスはこのことで彼らを叱らなかった。偉大になることや成功することの願望が、人間的、自然なことであり、それを否定することは出来ないことを知っていた。しかし、単につけ加える:「あなた方は自分が何を願っているのか分かっていない」。
***
人生において真に成功する人は少ない。ゆえに、このことで私たちは悲観主義になり、失望し、劣等感で苦しまなければならないのか?キリストは一人ひとりに、卓越する機会を与える。しかし、私たちが持っている偉大さの概念を変えながら。私たちがキリストに学びながら。
人の子が来たのは、仕えるためである
仕える者は、仕えられる者よりも劣る。奉仕は卑しいもの、社会階級の最も低い段階である。ゆえに、みな、奉仕を強要されず、自立していられる職業を探す。人間の尊厳は、自由であること、自分の意志を行うことにある。
***
しかし、いつもそのようにはならない。他者の意志は、それが他者のものであり、押し付けられたものならば、私の自由に反する。しかし、ある人が恋人を喜ばせようとするなら、自分が彼女よりも劣っているとは思わない。他者の意志が自分の意志となる。愛がこの驚くべき結合を成し遂げる。
***
最も崇高な例は、三位一体のいのちの中にある。御子は御父を愛し、絶えず御父の意志を行う。しかしそれは、御父の意志を、御子の意志でもあるようにする。御父と御子は一つであり、意志は一つである。御父は世を救うことを望んでいるので、御子はその意志を遂行し、仕える。
しかし神に仕えることは、支配することであり、「僕(しもべ)」は全宇宙の王となる。
あなた方のうちで偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい
救いとは、神のいのちの部分を持つことである(神のいのちを分かち合うことである)。三位一体の神秘は、私たちの人間同士の関係の中に結果をもたなければならない。私たちもまた、互いに仕え合わなければならない。この教えは、ニーチェをいらだたせた。彼はキリスト教を、奴隷の宗教だと呼んだ。それに反して、彼の「超人」は岩の塊のように転がって、道をふさぐものをすべて破壊しなければならなかった。
***
彼の視点からすれば、それは理に適っていたかもしれない。しかし、それなら、すべての結果とともに。石には感情が無く、それは孤独である。人間は逆に、感情があり、他の人々と共に生きることを必要としている。感情のない人間は、奴隷を作り、彼自身も奴隷になる運命にある。
しかし、もし、支配的な感情が愛であれば、相互の奉仕は、それをより強く、確かなものにする。そしてもし、この愛が神の愛に似たものであるなら、そのとき、私たちが日々祈っていることが実現される:「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように」。
0コメント