Sr.ルカの独り言:「定型」を打ち破って出て行く…教皇フランシスコの広報省訪問から思う…(2021年
「マリア論オンライン講座」が、第二期に入ろうとしているこのとき(2021年9月開始予定)、ある程度出来上がってきた「枠組み」の中に、安心して「で~ん」と腰を下ろしてはいけないと思う。
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教皇フランシスコは、先日、2021年5月24日、バチカンの広報省を訪問した。
この訪問について『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』編集長、アンドレア・モンダ(Andrea Monda) 氏は、2001年5月24日付の同紙に、「教皇フランシスコ、広報省訪問:現実の平手打ち」というタイトルで記事を書いている(試訳は「マリア論オンライン講座」HPに掲載しました)。
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何も考えなくても、慣習に従って、自動的にすべてがうまくいく…という「機能主義」に陥らないように警戒してください、と教皇は言う。
(試訳)
機能するとは、前に進むこと、歩むことです。
よく機能することに反する大敵は、機能主義です。
例えば、私はある部門の長で、秘書だとします。私には七人の次官がいます。すべてうまく行っています。誰かが問題を抱えたら、その人は、それを解決しなければならない次官のところに行きます。その次官は言います。「ちょっと待ってください。あとで答えます」。そして電話を取り、秘書を呼びます…。つまり、これらの次官は役に立たないのです。決めることが出来ない、自分の決断をすることが出来ない。機能主義は致命的(命取り)です。組織を眠らせ、殺してしまいます。これに陥らないように注意してください。
私たちの小さな「講座」にも、同じことが言えるだろう。
いつもどこか足りなくて、周りから指摘されながら、「現実から平手打ちを受け」ながら―まさに、現実に目覚めさせてもらいながら、私たちが自然に作ってしまう「枠組み」「常識」から、つねに「出て行く」覚悟がなければならないだろう。そうでなければ、「私の、私たちの講座」になってしまい、役に立つかもしれないが、イエスのメッセージを運ぶものにはならない。つまり、「聖霊不在」の講座になってしまうだろう。
イエスを運ぶものでなければ、もはや「マリアの講座」ではない。マリアのすべては、キリストに向いているから。キリストに関連しているから。
もし私たちの講座が、マリアのものとして留まっているなら、それは講座そのものを「超える」何か、私たちの力を超える何かによって、絶えず突き動かされることを覚悟しなければならない。「私たちの」好きなようには進ませてくれない、「サプライズの神」の風を感じ取り、必要ならばまだ完全に準備が出来ていなくても、信頼して未知の海に出て行く覚悟が出来ていなければならない。
それでもし、イエスのメッセージを一人でも多くの人に届けることが出来たなら、それは私たちの功績でも、能力の結果でもなく、貧しい私たちの講座を通しても、イエスを届けたいと望む母マリアの執り成しの力のおかげだろう。すべての人を自分の中に集め、永遠のいのちに導くキリストのあがないの力を、すべての人に分かち合うこと。それがマリアの唯一の願いだ。枠組みを超え、壁を超え、境を超えて。
アンドレア・モンダ氏は、教皇が『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』の会議室に立ち寄り、毎朝、この新聞が編集部員によって構成される様子を見たときのことを語っている。
(以下、試訳)
「私たちは朝の9時頃に集まって、どのニュースを載せるかを決めます」と、編集長のPiero Di Domenicantonioが説明した。「いつでも設定を変える準備が出来ています。なぜなら現実はいつも私たちを驚かせるからです」。
「この事実はとても素晴らしい」と教皇は述べた。「一方で私たちの考え(概念)があり、他方で、より強く、より大きな現実があります」。そして付け加えた。「現実に平手打ちされるに任せてください」。顔に直撃する平手打ちの場面をジェスチャーで真似ながら。
そして、モンダ氏はコメントしている。
カトリック作家であるFlannery O’Connorは、良い本とは、読者の顔に平手打ちを与えながら、顔の角度をいくらか回転させ、世界を別の視点から見直させるものだ、と言っていた。これは良い新聞にも当てはまる。私たちの頭の中の計画をひっくり返す現実から、平手打ちを受け、私たちは、優れたジャーナリストとして、今度は読者に平手打ちを与えなければならない。つねに私たちを驚かせる現実についての、新しく、新鮮で、普通ではない見方をさせながら。
これは、シニズム(皮肉)になってしまうような「当たり前のこと」から私たちを解放するだろう。教皇フランシスコの、バチカン・メディアの編集部の部屋や廊下の訪問自身が、この新鮮な風の香りをもった。それは、聖霊降臨の「激しい風」と似ていて、肌を刺し、日々の仕事をする人にとって、つねに最も深刻な危険である慣習の麻痺(無気力)を、私たちから取り除く(教皇フランシスコは、Sala Marconiの訪問の最後に「機能主義は死を招く(致命的だ)」と言った)。それは、教会のミッション(使命)への奉仕である私たちのコミュニケーションへの召命の力を消す危険である。
そして、教皇の訪問に、「私たちを危機(crisis)に陥らせてくださって感謝します」と結んでいる。
教皇さま、ここに、私たちの近く、私たちのただ中にいてくださり、このようにして私たちを目覚めさせ、父のように、あなたの存在の新鮮な風をもって私たちを危機に陥らせてくださったことに感謝します。
「定型」を破る覚悟。それによってしか、新しい視点、目線は生まれないから。「機能主義」に陥らずに、機能的に働くためには、自分たちが運ぼうとしているもの、届けようとしているものが、「自分たちのもの」ではないこと、自分たちの頭から生まれたものではないことを、つねに自覚する必要があるだろう。
私はときどき、『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』の記事を試訳して、オンライン講座HPに掲載しているが、それらの記事はすべて、インターネット上の無料版からで、それらは短縮されていない(後の部分を読みたければ有料版に登録してください、などとは言わない)。これは、教皇フランシスコが言うように、イエスのあがないの「無償性」から来るのだろう。無償であがなわれた私たち、無償で受けた救いの賜物を、今度は私たちが、無償で分かち合うよう派遣される。すべての人に。
聖母マリアの「お告げ」と「訪問」の神秘を思う。「定型」を破る聖霊の働きを受けて、マリア自身も「定型」を破る。無償で、しかも存在の根源からあがなわれたマリアは、自分自身をまったくの「賜物」として差し出す。イエスによってあがなわれたすべての人のために。今を生きている私たちのためにも。
そのマリアの思いを運ぶよう招かれている、私たちの「講座」。
「無償」というのは、有料ではない、ということだけでなく、謙虚に自分たちの足りなさを、弱さを認め、私たちを突き動かす聖霊の風に吹かれて前に進む覚悟をもつ、ということも意味しているのだろう。
過去に留まるのでも、将来への不安に麻痺するのでもなく、今、私たちと共に生きておられるキリストを運んで、今を生きるために。
聖霊に満たされた方、マリアよ、私たちが慣習の怠惰さの中に陥ることがないように守ってください。主が私たちに今、望んでいることを、謙虚に喜んで行うことが出来ますように!
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