Tomas Spidlik枢機卿『毎日の福音』より試訳 年間22金曜日:新しい態度と古い態度(ルカ5・33-39)
婚礼に招かれた客が断食することが出来るだろうか?
古代の修道者たちの物語や、彼らが断食した方法について読むとき、私たちは問いかける:そんなこと可能だろうか?
そしてもし可能ならば、どんな意味があるのか?神は世界を、「招かれた人々」のために整えられた食卓として準備したのではないのか?私たちは感謝してその賜物を受け取るべきではないのか?
それを理解するためには、それらの修道者たちの立場になって考え、彼らが断食を正当化した理由を探すべきである。断食することに対する、キリスト者の、最初の、そして主要な理由は、愛[のわざ:carità]である。多くの人が飢えで死んでいる。多くを持っている人は、他の人々のために、少しのパン切れを自発的に放棄する。もう一つの理由もまた、愛(carità)である:生きるための真の必要は多くはなく、生きるためには少しのもので十分であると示すこと(dimostrare che i veri bisogni della vita non sono grandi e che per vivere basta poco)。しかしまた、正直で喜ばしい出来事を祝うために、友人と一緒に食卓に座ることを促すのも愛(carità)だ(Ma è ancora la carità che ci spinge a sedere a tavola con gli amici per festeggiare qualche felice e onesta circostanza)。イエスはそのようにしていた。40日間断食したが、祝宴にもあずかり、すべての人の善のための言葉を語った。
誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない
しばしば私たちは「時代は変わった!」という言葉を聞く。このようにして、価値の疑わしい多くのものを正当化し、言い訳する(Così si giustificano e si scusano molte cose di dubbio valore)。世界は絶え間ない進化の中にある。ある時代はそれがより明瞭で、他の時代はそうでもない。けれど実際、何が変わるのか?私たちが着る服、使う道具、住む家。さらにより重要なのは、人々の考え方、物事に与える意味の変化である。もし変化が根本的ならば、革命(rivoluzione)―文字通り転覆(capovolgimento)を意味するラテン語から来る―と考えられるだろう。イエスの説教は、まさに、さまざまな意見―貧しさと豊かさ、物事の価値、神に対する宗教的態度について―の根本的な転覆とともに始まる。イエスが語るとき、群衆はイエスの話を聞くために、後を追いかける。人々は喜んで新しいプログラムに耳を傾ける。特にそれが、心の中の隠された望みに答えるものであるときに。しかし、その後、以前の生活に戻り、以前の判断に戻る。つまり、新しいものを受け入れるが、古いものを変えようとしない。あたらしいぶどう酒を、古い革袋に入れている。
イエスの時代にそうであった。そして私たちの時代もまたそうである。福音のメッセージは少しの間輝くが、その後、元の考え方に戻る(Il messaggio del vangelo brilla per un momento, ma poi lascia il tempo che trova)。
誰も、新しい衣服から布切れを切り取って、古い衣服を繕ったりはしない
このメタファー(比喩)は、今までの話を完成する:私たちは以前のように生き続け、しかし、何かがうまく行っていないと感じ、満足することが出来ない。それはまるで、古い服に裂け目があるかのようだ。それは体の一部を露出させ、冷たくする(È come se ci fosse uno strappo nel vestito che lascia scoperta e fredda una parte del corpo)。そこで私たちは、古い服の穴をふさぐために、新しい布切れを当てようとする。
イグナチオの霊操の中で、この態度はあるたとえで表現される。二人の人が、盗んだ金で生活している。彼らは神と和解することを望み、祈り始めるが、お金を返そうとはしない。彼らの祈りは、古い服を新しい布で繕うようなものだ。服は裂け続ける。よく言われる言葉に、「Aを言った後、初めてBを言うことが出来る」というものがある(Dice un detto popolare: si dice B solo dopo aver detto A)。キリストへの回心は部分的ではあり得ない:馬車は、車輪が回らなければ前に進むことは出来ない。車輪は私たちの態度、私たちの考え方である。
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